2014年12月15日月曜日

冬の巣立ち

引っ越し用の段ボールをもらいに近所のスーパーマーケットへ行った。
投票の帰り、揚々と自転車をスーパーまで走らせ、店員のおっちゃんに「引っ越しに使うんですよー」などと言いながら、段ボールを頂く許可をもらう。店の裏手へまわり、大きさごとに分けられた段ボールの山から適当なものを5つほど見繕う。そこまで来て、ようやくこの段ボールを運搬する方法について何も考えていなかったことに気づく。
段ボールというのは、箱型にすればものを運べ、潰せば平べったくなり省スペースという優れものだが、段ボールそのものを大量に運ぶとなると恐ろしく厄介な代物だ。平面にするとかなり大きいし、持つところがない上につるつると滑りやすいし、その上結構重い。実際に5枚重ねてみて、自転車のかごに乗せて押さえておけばいいのでは、という考えの浅はかさに気づく。
スーパーを訪れる客や駐車場を整備する警備員の視線に晒されながら思案した結果、大きめの1つを箱に成形し、その中に残りを無理矢理折り曲げて押し込んだ。値段だけで決めた買い換えたばかりの自転車に荷台がついていたことに初めて感謝しながら、重い紙の箱をそこへ乗せた。


私は背が低い。痩せていて、見るからに力も、体力もない。おまけに怠惰で甘ったれなので、見かねた人が手を貸してくれることがある。あぶなっかしい上に要領悪く見えるのだろう。そうやって助けてもらえることはとても幸運だし、ありがたいことなのだけど、反面、別に1人でもできるのに、と思うことがある。
背の低い人間は、あの手この手で高い所にあるものを取る術を知っている。確かに背の高い人に頼んだ方が早いかもしれないけれど、でも、取れるのだ。仮に取れなかったとしても、別のもので代替して乗り切ることだってできる。だから放っておいてほしいと思う。まるっきり背伸びする子どもの理屈だとわかっているけれど、いつまでも子どもではいられないし、いつも誰かが助けてくれる訳じゃない。むしろ助けてもらえる見込みなんて減っていく一方なのだから、背伸びでもなんでもして、自力で乗り越える術を身につけるしかない。どんなにあぶなっかしく、要領が悪かったとしても。

大人になるということがどういうことなのか、どうすればなれるのか今でもよくわからない。だけど、例えばそれが自分のことを自分でできるということだとしたら、私はまだ大人の入り口にも立てていない。いろんなことができなくて、できないままで許される場所にいる。親に庇護されて今でもただの子どもだ。そのことに、静かに焦燥感が募っていく。早く大人になりたい。思春期の子どものように思う。早く大人になって、1人で生きられるようになりたい。


家に戻る途中、一度バランスを崩して段ボールを全部地面にぶちまけた。自転車に乗ったおばあさんが迷惑そうに通り過ぎる。車が1台、器用に段ボールを避けて走っていく。コンクリートに広がった段ボールを拾い集めながら、私は彼らが「大丈夫?」「手伝おうか?」と言わなかったことにほっとしていた。そりゃ、段ボールを運ぶ怪しい女に声なんかかけるはずないことはわかっているけれど、彼らが助けてくれなかったおかげで、私は自分の失敗の始末を自分でつけた。当たり前だ。当たり前の世界で、これから生きていく。
私はもう一度段ボールを荷台に乗せて歩き出した。

来週、16年間暮らした家を出る。

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