2015年4月13日月曜日

マーブルマイワールド

 コンタクトを切らしてしまった。
 引っ越したので駅前の眼科に初めて行ったら、トライアルで何日か使ってからでないと売ってくれないという。
 平日に医者に行く時間なんて取れないから仕方なく眼鏡でやり過ごして土曜を待つ。
 ちょっとした手術があって父が入院することになった。自分は別の用事があるので、土曜日父に付き添ってほしいと母が言う。その翌日の日曜は出勤日だったから、土曜のうちに1週間分の掃除だの洗濯だの買い物だのを済ませなければならないからちょっと面倒だなと思った。
 ここ最近ずっと頭の中がとっ散らかっている。汚れた部屋を整理したら全部がらくただったみたいに、思いついて書いてみてはまとまりのない文章が出来上がって、フォルダの中には没になったワードファイルばかりが溜まっていく。
 1人暮らしを始めてから毎日ずっと自炊していたのだけど、遂にパンにも米にも麺にも飽き飽きしてしまった。なにより自分の作った食事に飽きている。だからと言って食べたいものも思いつかない。

 土曜日、眼科に行って医者と話してコンタクトの度数を下げることになった。またトライアルを使うことになって、またコンタクトを買うことができなかった。
 買い物をして洗濯物を干すともう家を出なければいけない時間だった。これから病院に行って父の夕食を見届けてとなると、帰ってくるときにはもうすっかり夜になっているだろう。明日以降のために少し料理して作り置きしないといけないし、今日は何もできない。明日はまた仕事だ……。
 頭痛を抱えながら、でも予定を変更することはできなくて電車に乗って病院に向かう。度数を落としたコンタクトは、眼科では大して違わないと思ったのにそれをつけて外を歩いてみると遠くの方が随分ぼやけた。
 自分のことなのに、ままならないことばっかりだ。薄っぺらいコンタクトレンズ1枚で見える世界の輪郭が滲む。時間も思考も肉体も、思うとおりには動かせない。自分の意思以外の余りにも多くの要素が混ざり合って私を決定していく。ままならない。なんだかうんざりする。
 ここのところ一時的に仕事が忙しいのが理由なのだと思う。疲れていて、何もかも面倒くさい。布団で寝たらそのままバターみたいに溶けていないかなとか、曲がり角から出てきたトラックが吹っ飛ばしてくれないかなとか、そういうことばかり思いつく。
 別に死にたかないが少し疲れている。あとはまあ、寂しいのかもしれない。彼氏がいたらいいかなあ。でも私は他人の体温が苦手なのであんまり接触はしたくないし、彼氏と言ってもそんなに頻繁に連絡を取ったり会ったりしなくてもいいし、そいつがどこの女といつ何をしていようが全然気にならないし、そういうのは一般的には彼氏とは呼べないらしい。
    付き合ったり結婚したりとかいうことを考えないわけではないけれど、想像してもどうもしっくりこない。1人でやりたいことが多すぎて、誰かと人生を分け合うイメージができない。どっかの占いの結婚運で「家事はするが家庭的ではない」と書かれていたのを思い出す。

 病院というのはもっと辛気臭い場所だと思っていたが、都心にあるせいなのか思ったよりずっとこじゃれている。ちょっとした展望レストランも24時間の売店もあるし、タリーズコーヒーまで入っている。
 ロビーで警備員のいる受付表に名前を書く。表には患者との関係性を記入する欄もあって、見ると妻、母、姉、見舞いに来ているのは女性ばっかりだ。
 大仰にもカードキーを翳さないと入れない(土日はそういうシステムらしい)病棟で父と面会する。
 中に入ってみて改めて思ったけれど、入院していてできることは余りにも少ない。想像するだけでぞっとするような暇さだ。退屈じゃないのか訊くと、慣れるよと父は答える。少し喋って、やたらと寒い談話室で並んで夕食を食べる。私はおにぎりとサラダを買った。病院の売店は割高だ。動かないで食べるばかりだから太りそうだと父が言う。お見舞いにもらったという帝国ホテルのチョコレートを2つ、持って帰れと渡された。

 翌日は出勤なので早めに病院を出る。帰りの電車は最後に川を渡る。外を歩きたくて、最寄駅の1つ前で降りる。
 川が好きだ。当然だけど川には建物がないから急に空が拡大する。押しつぶされそうな空には解放感がある。東京に住んでいるとそういう場所はなかなかない。本当に何もない広々とした田舎だと心もとなくなってしまうので、川という部分的な自然具合が丁度よいのだと思う。
 1キロくらいの橋を歩く。脇をハイウェイかと思うような速度で車が走っていく。実家の近くにも川があったけど、それより川幅がずっと広くて、水量も多くて、ちょっとした湖のように見える。強い風が常に吹いていて髪がなぶられる。
 少しつめたいくらいの風が心地よい。ソーダ水のように頭の中にふつふつと言葉が湧いてくる。まだずっと歩けそうな気がする。
1人で行くしかない道を選んでいる。それでも誰か一緒に生きてくれたらなと思っている。
    私は誰にも守ってほしくないし、支え合いたくないし、つらいとき傍にいてほしいと思わない。同じものを見たいとも思わない。ただ、一緒に戦ってほしい。戦う相手はそれぞれ別で構わない。戦っている人と背中合わせで一緒に生きていたい。そういう人と、混ざらなくても交ざりあって生きていけたらいいのに。

 家に帰ってもらったチョコの包みを開くと、ホワイトチョコとビターチョコのマーブル模様をしていた。

《告知》5/4文学フリマ出店します。

告知です。
5/4 東京流通センター 第二展示場で開催される第二十回文学フリマ東京に、サークル「好きにさせろよ」にて出店します。
出品は以下2点の予定です。

①『好きにさせろよvol.1』
本ブログ記事の抜粋+書き下ろしを加えたフリーペーパー

②『闇鍋』
満島エリオ他2名がそれぞれ記事を寄稿した雑誌形式の読み物です。私は小説にて『ひかりのふね』という作品を載せます。価格未定ですが32P 300〜400円になる予定。
 ブース位置 : エ-38 (Fホール(2F))
 カテゴリ   : ノンフィクション|雑誌
文学フリマ公式サイト:http://bunfree.net/?tokyo_bun20

以上、お待ちしております。

2015年4月1日水曜日

なる。

  植物の一斉に芽吹く匂いなのか、春は蠢き混ざり合うような落ち着かない香りが満ちる。    
  春がずっと苦手だ。いろんな事がいっぺんに変わって、また一から新しいことに順応しなければいけないことが苦痛だった。せっかくなんとか確保した居場所が取り上げられて、丸裸にされるようで嫌だった。クラス替えでグループを組んでくれる相手がいるかどうかは死活問題だった。春にいい思い出はない。


  近ごろ、「なる」という言葉をよく耳にする。
  顔を知っている最後の後輩が大学を卒業して、社会人になった。
  知り合いが国家試験に受かって薬剤師になった。
  仕事を辞めてもう一度大学生になった人もいる。
  彼らにとって、今日4月1日は新しい特別な日だろう。今までは私もそうだった。けれど社会人になって、その日付はなんの境にもならなくなった。桜はただ春の花として、咲いてはあっという間に散っていく。
  学生のころ、何もしなくても何かになれた。
  中学を卒業すれば高校生に。1年生は2年生に。大学生は社会人に。でなければその他の何かに。その時々で受験や就活なんかのハードルはあったにせよ、時間の流れとともにベルトコンベアのように自動的にその段階はやってきて、その段差を上ればよかった。
  でもこれから先はそうではない。自分から何かになろうと思わなければ何にもなれない。     
  季節はらせんみたいに途切れることなくただ延々と続く。春はもう待ってくれない。
  そこで私は大きな思い違いに気づく。「何か」にはいつでもなれるかもしれない。でも「なりたい何か」になるためには相応の努力が必要だということ。今までこれからだって、それは同じだ。ただ、これから先は努力の他に、今いる場所から飛び出す覚悟が必要になる。
  これから先の人生で、まだ私はなにかに「なる」ことができるだろうか?


  家の近くに小さなグラウンドがあって、休日のたびに少年野球チームが練習している。
  ある日通りがかったら練習試合をやっていた。マウンドに立つ少年が投げる。監督から檄が飛ぶ。一つの白球に集まる視線。緊張感。小さな体をユニフォームに包んだ少年が、もう一度球を握りしめる。その姿が孤高で、息を飲むほどかっこよかった。
  小さくても幼くても、土のダイヤモンドの真ん中で彼は確かにピッチャーだった。
  甲子園で、メジャーリーグで、いつかマウンドに立つ日が来るのかもしれない。
  それが彼の夢なら叶えてほしい。

  彼が「なる」姿が見たい。