2015年3月1日日曜日

終わってしまうとほっとする話


終わってしまうとほっとする。
前々から計画していた旅行も、友達と会う約束も、楽しみにしていた番組も。
待ち遠しかったのも本当だし、楽しんでいるのも本当なのに、そのさなかではいつもある種の緊張感に晒されている気がする。
あとこれしかない、ああもうすぐ終わっちゃう。笑いながら、心のどこかの部分では横目で終わりまでの時間を気にしている。砂時計の砂が落ちるのをただ見つめさせられているような、じりじりとした焦りともどかしさ。
だからそれが終わるとき、張り詰めたものがゆるんで、ほっと安心する。


 それじゃあまた、と言って誰かと別れるときにだけ感じる種類のさびしさがある。
 さっきまで時間を共有していた人がこちらに背を向けて歩き出すのを見るとき、あの人には帰るべき日常が別にあるのだ、と気づいてはっとする。あの人は、もう私と同じところに属してはいないのだ。そして、 1人になった帰り道でひどく心もとない気持ちになったりする。自分が一体何者で、今どこにいるのかが途方もなく不確かなことに思われる。

 学生のころはそんなふうに感じることはなかった。教室は閉鎖された息苦しい空間だったけれど、少なくともそこには自分の机があり、出席番号があり、毎日決まった顔ぶれが揃っていた。友達とは昨日の続きから話し始めることができた。中間試験と期末試験があり、季節ごとのイベントがあり、 1年生が終われば2年生になった。すべては煩わしいほどに繋がっていた。自分がその一連の中に属しているということを、確かめるまでもなく知っていた。

 今は違う。自分の中に平日と休日を切り替えるスイッチがあって、仕事をしているときと休みのときの私は別の回路で動いている。土曜日になって前回の休みにやりそこねたことを慌てて片づけ、月曜日には鈍った頭をなんとか働かせてペースを取り戻す。比較的頻繁に会う友達でもひと月に一度程度しか会えず、会話は近況報告から始まる。それから昔のネタでひとしきり盛り上がって、体内の時系列がめちゃくちゃになったところで「じゃあまた今度」で現実に放り出される。それでいつも途方に暮れてしまうのだ。今はいつで、私はどこにいるんだったっけ。


 大人になった今、時間も人との関わりも、あらゆることがぶつ切りになっている気がする。ばらばらになった要素をかき集めて並べてみてもうまくつながらない。自分というものの輪郭が見えない。ふっとそのことに気づくたびに恐ろしくなる。踏みしめていたはずの地面がぐらぐらぐにゃぐにゃと歪んでいるようだ。
 そのぐにゃぐにゃから逃げるために約束するのかもしれない。人と会って、旅行に行って、休日と手帳の空白を埋めて、「またね」でもう 1度約束をする。そうやって、自分を確かなものに繋ぎとめようとしているのかもしれない。

 つなぎ続けなければ失われてしまうという強迫観念に追われて、積み上げた端から崩れてしまうものを、なくならないように必死に重ね続ける。そうしなければ自分というものが失われてしまう気がする。
 その焦りから解放されるための手段の一つが、誰かと付き合ったり結婚して家族になることなのだろうと思っている。そういう社会的な枠組みの中に入ってしまえば、自分のことは社会が勝手に定義してくれる。
 でもそれが、私にはとても不安定なものに思えるのだ。自分以外の人間によって与えられた場所なんて、その誰かの翻意によって簡単に覆る可能性がある。その場所は本当に安寧なのだろうか?

 本当の安らぎ、みたいなものは、全部なくなった後にしかないのかもしれない。どん底までいってしまえばそれ以上落ちることがないように。
繋いでいたものが終わってしまったとき、私はやっぱり少しほっとするのだろうか。