2014年9月27日土曜日

ガチャガチャ

今日、地元で、セーラームーンのガチャガチャを見つけて、思わず回してしまった。
セーラー戦士5人をモチーフにした5種類のイヤホンチャーム(イヤホンにつけるとキラキラ揺れてかわいい!)という全く実用性のないもので、私自身セーラームーンがすごく好きというわけでもないのだが、その安っぽいデザインがすごくかわいくて、光に吸い寄せられる虫のようにフラフラと、気づけばガチャガチャの前に立っていたのだった。
 1300円。どう考えてもそれほどの価値の代物とは思えないが、社会人の今となってははした金、見よこれが大人の力とばかりにミウミウの財布から出した100円玉を投入してハンドルを回す。出てきたのは、セーラージュピターがモチーフの、ピンクと緑のイヤホンチャームだった。
 改めて、5つのラインナップを眺める。
 タイムリーにセーラームーンを視聴していた幼き頃、私のお気に入りは火野レイ、セーラーマーズだった。今だったら(アニメはもう見ていないけど)、あざとくてチャーミングな美奈子ちゃんが好きだ。チャームのデザインで選ぶなら、心なしか他より豪華なセーラームーンモチーフがダントツにかわいい。セーラーマーキュリーのチャームは水色の色合いがとても綺麗だ。
 何が言いたいかというと、5つの中で1番欲しくないやつが出ちゃったのである。いや、決してジュピターが嫌いという訳ではないけれど、5つも並べられたらやっぱりどれが欲しいとかどれだったらいいとか頭の中で順位づけしちゃうじゃないか。
 というわけで、実物を見るだに安物のイヤホンチャームというわけのわからないもののために、私はもう1度大人の力を発動してガチャガチャを回した。出てきたのはセーラーヴィーナス。青とオレンジのコントラストの強さが小悪魔的。
 ……うーん、見れば見るほどセーラームーンのやつが欲しい。しかしまあ、今日のところはこれで勘弁してやろうと、ゴルフボールくらいの小さなケースを2つ鞄にしまい、ガチャガチャの前を離れたのだった。


 子ども時代、私は1度もガチャガチャをやったことがない。お菓子についている食玩も買ってもらったことは数えるくらいしかないし、駄菓子も買ったことがないし、家の冷蔵庫にジュースの類は全く入っていなかった。漫画というものをちゃんと読んだのは中学生の時が初めてで、ちゃおもりぼんもマーガレットも手に取ったことがない。ゲームボーイも持っていなくて、あったのはスーパーファミコンとプレステ1、以上。今考えると、かなり管理された家庭環境だったのだと思う。
 じゃあ何をしていたのかって、たぶん本を読んでいたのだと思うけれど、それを寂しいとか、他の子が羨ましいとか惨めだとか思ったことは一回もない。不思議なことに。
 もちろんガチャガチャをやってみたいという気持ちはずっとあったけれど、気恥ずかしさと、一度もやったことがないゆえの変なためらいがあって、初めてあの丸いレバーを回したのは大学生の時、20歳を過ぎてからのことだ。たぶん、旭山動物園の動物フィギュアのガチャガチャが人生初だったと思う。
 その、非常にライトなギャンブル感とフィギュアの予想以上の緻密さと、やっとガチャガチャができたという喜びはちょっとしたもので、その頃にはバイトでいくらか自由に使えるお金があったし、その使い方も知り始めていたので、以降事機会さえあればガチャガチャに硬貨を投じるようになった。
 子どもの頃できなかったことを取り返そうとするように、私はブランドものの財布からためらいなく金を出す。今の私は働いて給料をもらっているから、「大人の遊び!」と言いながら友達と23回と気の済むまでトライすることができるし、出てきたフィギュアやらチャームやらを並べて悦に入るところまで含めて非常に楽しい。楽しいけど、だけど、本当に子どもの頃、お小遣いを握りしめて1回こっきりに1番欲しいものを賭けてハンドルを回すその気持ちを、私は知ることができないのだな、と思い知った。
 子どもの頃貧しくて手に入らなかったものとか、親の趣味に合わなくてやれなかった習い事や着られなかった服なんかを、大人になって得た金や自由で手に入れる人は多いと思う。それはそれで達成感や幸福を持つけれど、子どもの頃、本当にそれを渇望していた時に与えられる充足感にはどうしたって及ばない。「あの時」手に入らなかったという過去のコンプレックスは、どうしたって埋めることができない。自分の自由にならなかったからこそ価値があったたった1度のガチャガチャを越える喜びを得ることは、大人になった私にはもうできないのだ。
 手の中のイヤホンチャームは安っぽくてかわいいけれど、ガチャガチャが出来なかった私の中の幼い私は、永遠に寂しいままだ