2014年12月9日火曜日

灯台の座標

大人になったら、化粧なんて完璧にできるんだと思っていた。
アイラインもマスカラもばっちりで、毎日鮮やかな口紅を引いて、髪なんかも巻いちゃって、ハイヒールで颯爽と歩くんだと思っていた。
社会人になった今、私は毎朝家を出る30分前に起きる。化粧なんてチークまで入れていれば上出来といったレベルで、当然髪なんて巻けるはずもなく、子どもの頃思い描いた大人のお姉さんとは程遠い格好で電車に乗っている。
思い返してみれば、大人になんてなるまでもなく髪の毛を巻いている子は毎日きちんと巻いていたし、絶対にすっぴんを晒さない子だっていた。高校の修学旅行の部屋で、みんなより1時間も早く起きて、薄暗い部屋で黙々と化粧をしていたクラスメイトがいたのを覚えている。
幼い頃から、身だしなみを整えることよりも11秒でも長く寝ていたかった。あの時から少しも変わらず怠惰な私が、彼女のような「綺麗なお姉さん」になれるはずがない。


大人になることを「階段をのぼる」などと言うけれど、その表現はどうもしっくりこない。順調にステップアップし続けるなら人はどんどん完璧に近づくはずだし、悩みは減る一方のはずだ。それなのに次から次へと悩みの種は発生するし、欲望にも妬みにも底がない。全然上がってない。それよりも、座標を移動する、と言った方が的確だ。人には座標があって、別の座標に移動するためにはエネルギーが要る。例えば今の私は朝起きられなくて、適当な化粧をする座標に立っている。身だしなみのために早起きできる私になるためにはエネルギーが必要だ。そしてエネルギーとは、努力とか意志だったり、する。


就職活動が始まった時、私は自分が何を仕事にしたいのか、どういう大人になりたいのか、具体的なものがまったくなかった。とりあえず、おしゃれだから広告や出版系を受けてみたり、自慢できそうだからとりあえず名前を知っている大手を受けてみたりしては落ちまくった。狂った方位磁針のようにくるくると方向が定まらなくて、わかりやすいものに飛びついては跳ねつけられた。きちんと化粧をし、髪を巻き、ヒールで颯爽と歩く大人の女性にイメージだけで憧れていたのと同じだ。自分が本当にそうなりたいのかは考えなかった。何が悪いのか、どうすればいいのかわからないまま、プライドだけは一人前で、私は現実逃避するように貪るように眠った。努力はしなかった。
幸運なことに、そんなに悪くない会社に拾ってもらって、それはやりたいこととは程遠かったけれど、やっぱり私は嫌なことは考えたくなくて、そこで就職活動を止めた。仕事のことは働きだしてから考えればいいやと思った。

就活が終わってから、私は友達と文学フリマというイベントに参加することになった。それぞれが文学だと思う物を作品にして売る、ものすごく小規模なコミケみたいなものだ。11つ作品を書いて、それをまとめて本を出すことになった。
私はパソコンを持ち歩き、図書館やカフェや家で、卒論と交互に小説を書いた。書きながら思い出した。幼稚園の時から小説家になりたかったこと。聞かれなかったから答えなかったけど、私の夢はそこから1度も変わっていないこと。本当は思い出したんじゃない。忘れてなんかいない。余りにも遠くて、考えるのがつらいので、私は眠って、それを考えないようにしていただけなのだ。だけどパソコンのフォルダを開いてみれば、途切れながらもいつも文章を書いていた痕跡があった。私の座標は、あの頃から全然動いていなかった。
それがわかったとき、解放されたような気がした。自分が変わっていないことを知るために、それまでの人生を費やしたようだと思った。でもそれでもいいと思った。私はやっと、自分がどこに立っているのかを知ったのだ。夢は相変わらず遠い。以前よりもっと遠いかもしれない。でも、陸の灯台の灯りのように、夜中でも、嵐に荒れた中でも私はその光を見ることができる。どれだけ遠くても、どちらへ向かえばいいかはっきりわかっている。私が迷うことはもうない。



あの修学旅行の日、人がいると眠りの浅くなる私は、ほんのりとカーテン越しに朝日の入る黄土色の室内で、布団に入ったまま化粧をする彼女の後ろ姿をずっと眺めていた。化粧なんてろくにしたことのなかった私には、どうして化粧にそんなに時間がかかるのかわからなかった。今、落ち着いて化粧するときでさえ、彼女ほど時間がかかることはない。それでも私はずっと、彼女の背中から目を離せない。誰に自慢することもなく、認めてもらおうとするでもなく、ただ黙々と自分の目指す座標に向かう姿は美しかったと思う。

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