2015年5月30日土曜日

《告知》ONLY FREE PAPERへ納品しました。

告知です。
文学フリマにて頒布したフリーペーパー『好きにさせろよvol.1』を、ONLY FREE PAPERという、フリーペーパー専門のスペースに置いていただきました。
場所は渋谷パルコパート1の4階です。
興味のある方、お近くに寄る方は是非お手にとってみて下さい。
どれくらいの早さでなくなるものなのかわからないのですが、追加納品はしない予定なのでなくなってしまったらごめんなさい。
どうぞよろしく。

2015年5月21日木曜日

何者

 5月16、17日、デザインフェスタに行ってきた。出展者1万2千人を誇る、世界規模のアートイベントだ。
存在は知っていたけれど、初めて行ってみて驚いたのはそのクオリティの高さだった。正直、こんだけの数のブースが出展しているのなら道楽で参加するど素人が散見されるのだろうとたかを括っていたのだが、全てのスペースを一通り回ってみてレベルが低いと感じられるものはほぼなかったと言っていい。
歌、ダンス、ライブペイントなどのパフォーマンス系もあるけれどだいたいのブースは物販なのだが、そのどれもが到底手作りとは思えなかった。「モノ」を作らない私のような人間には、アマチュアでどうやってあんな製品が作れるのかさっぱりわからない。店頭に並んでいたら業者の作っている市販品にしか見えないだろう。そういうレベルのものでビッグサイトはあふれかえっていた。
最初に質の高さに驚いて、でも次に私が感じたのはむなしさというか、やるせなさみたいな感覚だった。これだけのものが作れるのに、クオリティとしては充分なのに、「その程度」ならビッグサイトを埋め尽くすほどの人間に同じことができるのだ。そして、傍目にはほとんど同じようなものを売っているのに、あるブースでは行列ができ、別のブースは閑古鳥が鳴いている。その境界がどこにあるのか、あるいはそんな境界が本当に存在するのか、少なくとも作品だけを見ている限りはわからなかった。

プロアマの境がなくなってきていると言われる。様々なツールや業者が用意されている今、根気と情熱といくらかの金があれば、誰でもある程度のモノが作れるようになった。逆に言えば、そのレベルの人間が既に飽和している。
ブースの間を歩きながら、原宿を歩くときもいつもこんな気分になる、と思った。原宿という街には奇抜なファッションや髪色の人達がうじゃうじゃしている。だけど「人と違う自分でありたい」という同一のベクトルを持った人間が集まりすぎて、結果的にみんな埋没しているように見える。
何かになりたい人が多すぎる、と思った。
人は誰しも生まれてこのかた自分が主役、自分の視界だけで世界を展開してきた。自分は誰よりかけがえのない、重要な主人公だ。道を歩いていたら前から来た人が自分の顔をまじまじと見つめ、「君には才能がある。君は特別な存在だ」と言ってくれる妄想を、誰もが一度はしたことがあるんじゃないだろうか。
なんだかんだいって、みんな自分に秘められた可能性を信じている。なのに、一歩社会に踏み出すと誰も特別扱いなんてしてくれない。交換可能なその他大勢としての居場所しか用意されていない。そのギャップに戸惑って、受け入れられなかった人間が、這い上がるためにそのうち何かを作り始めるんだと思う。
デザインフェスタにはそういう人達が満ち溢れいた。それは出展者だけじゃなく来場者にも同じことが言える気がした。誰もが自分にしかわからない価値を見つけたくて、そして自分にしかない価値を見つけて欲しくてあの場に集まっているように見えた。そこにはあらゆる形での自意識が窒息せんばかりに氾濫していて、それはとても尊いエネルギーなのだろうけど、私はそれに酔って、息苦しくなってしまった。ここまで来たってまだ1万2千分の1の有象無象のくせに、と心の中で毒づいた。

結局、同族嫌悪なのだろう。私だって自分に特別な何かがあるという思いを捨てきれなくて、膨れ上がった自意識を持て余した人間だ。だけどその程度の存在はいくらでもいて、そこから頭一つ突き抜ける難しさを――何者かになるということの途方のなさを見せつけられて嫌気がさしただけだ。

私は私だ。そんなことは言われなくたってわかっている。でもそれだけじゃ満たされないのだ。どうしようもなく飢えていて、強欲だ。「自分は自分」という答えを拒絶するなら、何者でもない自分からスタートするしかない。無数の名前のない存在のひしめく中に飛び込んでいくしかない。たとえそれが、欠けた杯に水を注ぐようなことだとしても。

2015年5月10日日曜日

安全な部屋


焦っている。

やりたいこと、なりたいものと、そのためにしなければならないことが無限にある。しかしそこに費やす時間は余りに少ない。会社員だから週5日は労働で拘束される。通勤時間、昼休み、アイデアは次々と思い浮かぶけれど、腰を据えて取り組む余裕はない。だけど家に帰ってきて夕飯を食べると、まだ大した時間でもないのに横になってそのまま寝てしまう。予定のない休日には際限なく布団にくるまってうとうとしながら携帯をいじっている。仕事よりは好きな文章を書く方が当然楽しいけれど、それよりもごろごろ寝ている方がずっと楽だからだ。テスト勉強をするはずが部屋の掃除を始めてしまう学生と同じだ。怠惰で、集中力がない。尻叩きになるかもと壁に貼った「1日執筆1時間以上! やる前に寝ない!」と書いた紙がむなしい。

どうしてもっと頑張れないのだろう。本気なら寝る間も惜しんで文章を書けるはずだ。会社だって辞めればいいし、もっとボロい家に住んで新しい服なんか買わないで外食もしないでひたすら書いていくことだってできるのに、なぜそれができないんだろう。自分は本気じゃないのかもしれない、と思うことが苦しい。人生ってやつは、やりたいことをするには短すぎるけれど、それを諦めて生きるには長すぎる。


ラーメン屋で隣の席に、4、50がらみの夫婦が座った。

「○○さんちは子どもが2人とも就職して家出たんだって」
「へえ、人生あがりじゃないか」
 あがりってなによと妻は不満そうに訊いていたけれど、私には夫の言った意味がよくわかった。
 結婚して子どもを生み、育て、独り立ちさせたのだ。少なくともこの国の価値観において負うべき責務は一通り終えているように思える。もちろんその先も生活は続くにせよ、義務は既に果たしている。人生あがり、だ。
 今私の目指しているものは、そういう責務からは真逆にある。思いっきり逆走しながら、この道の「あがり」はどこにあるんだろうと思う。仮に結婚もしない、子どもも生まないとして、どこまで走れば、何を残せば私の人生は「これであがり」と認めてもらえるんだろう。

 この期に及んで「本気を出さない」ことで保険をかける自分が嫌だ。普通のベクトルに戻せるような打算を捨てられない自分が嫌だ。
 私だって負け戦がしたいわけじゃない。自分の書いたものが面白いって信じているから、夢が叶う可能性があると思っているから、そう思える限り突っ走りたい。だけどもしそんな可能性ないんならこの人生なんて明日にでも終わってほしい。毎日毎日焦りながら、自分の怠惰を見せつけられながら生きていくのは結構しんどい。命は短すぎるし、長すぎる。
 ゴールデンウィークにこじらせた風邪がなかなか治らない。薬を飲んで、月曜日からまた会社へ行く。
 私はまだこの安全な部屋から出られない。