2014年11月30日日曜日

ダンス・ダンス・アンド・ダンス

あなたの人生の一冊はなんですか。
と、もしそう質問されたら、迷うことなく「村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』です」と答えるだろう。
中学生にはなっていなかったと思う、11歳か12歳のとき私は実家の本棚にあった不思議なタイトルのその本を手に取った。講談社の、黄色い背表紙の文庫本だ。
まるで一枚の上等な絹の上に手を滑らせているように、その本の文章はするすると心地よく私の中に入ってきた。初めから終わりまでどこをとっても引っ掛かりのない、根気と研ぎ澄ましたセンスによって織り上げられた、それは緻密で繊細な世界だった。それまで私が年相応に読んでいた青い鳥文庫や岩波少年文庫よりも、一枚の挿絵もない、行儀のよい虫のように文字だけがびっしりと並んだその本の中の世界の方が圧倒的に豊かだった。言葉には、絵や音を凌駕して表現する力があるということを、驚愕とともに知った。その時から、私は言葉の国の住人だ。


「踊るんだよ」

『ダンス・ダンス・ダンス』の中で、羊男という人物が主人公にこう語るシーンがある。

「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなことは考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう」

「あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

「でも踊るしかないんだよ」

「だから踊るんだよ。音楽の続く限り」


 何かに躓いたとき、嫌になったとき、諦めようとするとき、心の中の暗がりから羊男が現れて、「踊り続けるんだよ」と言う。そうすると私は、「ああそうだ、踊り続けなくちゃいけないんだった」と思い出す。下手でも笑われても、あるいは誰もこっちを見ていなくたって、とにかく踊りつづけなければいけないんだと。そうして、羊男の言葉に蹴飛ばされて、停まりそうになった足をもつれさせながら、私はなんとか次のステップを踏む。

 足を切り落とされてしまった赤いくつの少女は、それだけでは残酷で不条理な物語だ。葬式に赤いくつを履いていっただけで足を切られるなんて代償が大きすぎる。けれど、羊男の言葉と共に考えるとき、私は不思議な感慨を抱く。彼女の足は、足だけになっても踊り続けたのだということに。そして、足を切られてでも踊り続けなければならないときが、人生の中にはあるのかもしれない、と思う。

 これから先、また何度でも躓いて、何もかも放り出したくなるときが来ると思うけれど、その度に私は羊男の言葉を思い出すだろう。
「踊るんだよ、踊り続けるんだよ」
 その言葉が、私にはダブってこう聞こえるのだ。

生きるんだよ、生き続けるんだよ、と。

2014年11月24日月曜日

ぼくとあたしと私たち

 小学校に上がるくらいまで、自分のことを「ぼく」と呼んでいた。
 自分のことを男だと思っていたわけでもないし、何に影響を受けたんだか受けていないんだかも定かでないけれど、物心ついた最初の時の一人称は「ぼく」だった。
 親に注意されたような気もするし、自分でもおかしいと思ったのかもしれない。当時周りの女の子たちは自分のことを「うち」と呼んでいたから、私も呼び方を「うち」へと矯正した。私は普通になって、みんなと同じようになって、それから自分のことをなんて呼ぶかなんて気にしなくなった。

 中学生のころ、今度は一人称が「うち」なのはダサいという感覚が急激に広がった。いかした女の子は「うちさあ」なんて田舎者みたいなことは言わない。「あたし」と言うのだ。
「うち」はダサいから使いたくない、だけど散々「うちがうちが」と言い合ってきた友達の前で急に呼び方を直すのは恥ずかしい。呼び方を変えるタイミングがはかれずに悶々と過ごしていると、それまでは気にしたこともなかったのに、そう言えばこの子は最初からあたしって言ってるなとか、こいつこないだまで「うち」だったくせに直しやがった、とかいうことがやたら気になってくる。仲の良かった友達が、ある日しれっと「あたしはさ、」なんて言い出すと、「抜け駆けしやがったな」と「やるなこいつ」というのがないまぜになって複雑な気分だった。とはいえ、もたもたしているとどんどん取り残されてしまう。葛藤を乗り越えて、私もどうにか「あたし」に進化した。

 勝手に命名するけれど、こういう「人称パラダイムシフト」は誰しも一度や二度経験があるはずだ。例えば男の子が「ぼく」を「俺」に変えるとか。「ママ」を「お母さん」にするとか。あだ名じゃなくて友達同士名前で呼び合うことに憧れて呼び捨てにしてみたりとか。初めてその呼び名を使った時の違和感がものすごかったこととか、気をつけてたのについうっかり「うちがさー」って言っちゃったときのいたたまれなさとか、思い出すだけで痒くなってくるような経験が。

 今の自分が嫌で、憧れとか、なりたい自分がいっぱいあったのだと思う。だけど、どうやったらなれるのかがわからなくて、とりあえず形から入って、新しい自分になったことにした。はじめてそれを使った時からどれだけ経ったのか、今の私は我が物顔で「あたし」と言う。だけど、その度に内側から笑われる。全然さまになってないよ、それ。
実際、「あたし」と言う時、私はいつも少し嘘をついている気がする。口から出る言葉が、自分の本心から薄皮一枚二枚離れているのを感じる。さまになっていないのだ。全然、自分のものになっていない。
 みんなと違うのはおかしいと「ぼく」から「うち」になり、格好つけたくて「うち」から「あたし」になった。それまでの自分はなかったことにしてきた。だけど本当はなくなってなんかいない。心の中で本音を言う時に出てくるのは、今でも「ぼく」だ。結局、それが私の本質に一番近いのかもしれない。


 私は良識ある大人だし、三次元のぼくっ娘がイタいこともわかっているから、「自分らしく生きるために今日から一人称をぼくにします!」なんてことはしない。今さら「ぼく」と言うのもそれはそれで違和感があるし。
 代わりに、イタくて恥ずかしくて死んだことにした「ぼく」の棺桶のふたを、ちょっと開けてみる。そこには、取り繕わない子どもの私が寝ころがっていてこっちを見ている。全然死んでない。
 私は「ぼく」にこっそりお願いする。
「今さらそっちにも戻れないけど、「あたし」が言えないことがあるときは、またよろしく」

 そっと戸を閉めたとき、それはもう棺桶ではない。

2014年11月12日水曜日

今夜は帰らない

 学生のころ、飲み会が終電前の微妙な時間に終わった時、必ず誰かが「これからどうする?」と言った。もう1軒どこかへ行ってそのままオールするか、ここで切り上げて帰るか、という意味だ。いつも同じようなメンバーでつるんでいて、その中でいつも残るメンツというのも大体決まっていた。私は帰らない人だった。ある時期には、帰らなすぎて親にめちゃくちゃ怒られたこともあるほど。
 今振り返ると、1番頭悪くて、1番楽しかった時期であるような気がする。私は冴えない地味な女子高生だったので、友達や先輩と毎日のように遊び暮らす日々は余りに楽しくて、楽しすぎて、現実じゃないみたいだった。高校生の頃には想像もできなかった未来だ。こんなに楽しい中に自分が加わっていることが不思議なくらいだった。
 だからかもしれない。「これからどうする?」と聞かれた時、私はどうしても「今日は帰る」と言えなかった。アルコールの力を借りた夢心地から離脱してしまうのが名残惜しかったのももちろんあるけれど、ここで帰ってしまったら、リセットされて自分の居場所もなくなってしまうような不安がどこかにあって、自分からは帰ることを選べなかったのだと思う。だから、正確に言うなら、帰らないのではなく帰れなかったのかもしれない。

 帰らない人が決まっているように、帰る人もだいたい決まっていた。そういう人は、今日は帰ると決めた日には、誰がどうやって引き留めても首を縦に振らなかった。まだ明るい駅の改札に吸い込まれていく背中を見るたびに、置いて行かれたような、裏切られたような気分になった。そうして、自分の意志でここから出ていける彼らにいつもひっそりと憧れた。

 オール明けの朝には化粧も落ち切ってひび割れたしゃがれ声しか出なくて、頭は脳みその代わりに石でも詰められたかのように重く働かず、麻薬の切れた中毒者のような有様で始発に乗る。電車に乗ってしまえば、いずれは1人だ。白けるような朝焼けの街が通り過ぎるのを、まぶたの落ちそうな乾いた目でぼんやり眺めて、そこまで来て毎回思い知らされる。朝まで残ったって、結局は寂しいんじゃないか。


 先輩の新婚のお宅にお呼ばれした。みんなで信じられないほど飲んで笑って、あっという間に時間が過ぎた。「終電で帰ります」と言うと、泊まって行けばいいのに、と言われた。何人かの人は最初から泊まる予定であったらしい。
 ものすごく名残惜しかったけれど、泊まりの道具も持っていないし、オールの翌日は昼まで寝てしまってなにもできなくなるからと辞退した。その時は言わなかったけれどもう1つ理由があって、その日私は、自分で帰ると決めてちゃんと帰るというのを実行したかったのだ。

 泊まり組に手を振って、1人夜中のホームに立つ。ベンチに座ったおっさんが、びっくりするほどでかいくしゃみを何度も繰り返す。終電に乗り込むと、中の空気は重力がきつくなったかのように重苦しく、ぽつりぽつりと座る乗客は眠ったり、携帯を弄ったりしながら終点を目指す。
 ネオンも消えた街を明るい箱に乗って進む。私は微かに酔いながら、残った人達のことを考える。今頃、さっきのウノの続きでもやっているだろうか。もう何時間かすれば、きっと真夜中にしかできない話が始まるだろう。残ればよかったな、と考えないようにしていたことがよぎる。私も聞きたいことや話したいことがいくらでもあるのに。
 そうして、今さらになって気づく。あの時、誘いを断って帰ったあの人も、たぶんこうやって名残惜しくて寂しかったはずだ。どれだけ楽しくたって、何時に解散したって、最後は自分1人なんだ。なんだかできすぎなくらい示唆的だ。

 帰れるか、帰れないかじゃなく、それを自分で決める人になろう、と思った。そしてそれは、「帰れる」「帰れない」に限ったことではない。なにせこれは示唆的なお話なので。

 そうして帰りの電車に揺られながら決めた。次の機会があったら今度は帰らない。

2014年11月8日土曜日

手帳と情熱

また、来年の手帳を選ばなければならない季節がやってきた。
 
書店や雑貨屋に入って、見慣れない西暦のカレンダーや手帳がずらりと並んでいるのに気づく。なんかちょっと、忘れていた仕事を見つけてしまったようで気が重くなる。どうしてか、手帳を選ぶことは私にとって気が進まない作業だ。
 
 私は洋服が好きだ。買う気はなくとも服を売っている店があればとりあえず一通り見て、何が流行っているのかを確認し、自分が今どんな服が欲しいのか頭の中のイメージを具体的なものにしていく。手に入らなくたって、きれいなものたくさん見て自分をアップデートする行為には充実感がある。だから、カラフルで趣向を凝らした手帳をいくつも手に取ってあれこれ検分するのだってもちろん楽しい。楽しいのだけど、手帳を選ぶのは服を選ぶのとは比べ物にならないほどのエネルギーを要求される気がする。
 洋服は毎日着替えるし、その日1日着るだけと思えば多少機能性には目を瞑ってデザインを優先させることもできる。足が痛くなったってかわいい靴を履く日があってもいい。だけど手帳はそうはいかない。手帳はほとんど毎日、しかもまるまる1年もの間持ち歩くものだからだ。機能性だけでも駄目だし、デザイン性だけでも駄目だ。1年間の一蓮托生の相方だ。基本的には1年に1冊しか持たない手帳は、その人のセンスが集約されている気がする。とか考え始めるともう既に話が壮大になってきて、わくわくするより先にため息が出てしまう。


 こういう手帳が欲しいというイメージはある
 デザインの面で言えば、ぱっと目を引く鮮やかな色で柄は大きめで個性的なもの、細長過ぎず正方形過ぎず、手に馴染むそこそこの厚みがあり、なおかつ高級感のあるもの。まちがってもあのださくて安っぽい透明カバーなどに覆われていてはいけない。
 機能性についてなら、まずペンホルダーがついていること。マンスリーとウィークリーのページがほしくて、デイリーはいらない。路線図が大きめに入っていてメモ部分が多め。ページが柔らかく開き、のどの部分にも書き込みしやすいもの
 以上すべてを満たすもの。あと、しおり紐は2本あるとさらによい。
 てな感じでこだわりはある。ありすぎるほどにある。ありすぎてうんざりしてしまう。「これだけの条件に当てはまる人を探し出さなきゃいけないの?」とか言って、結婚相手に求める条件を全部並べて、現実との乖離にげんなりする婚活女みたいな感じで。
 だからといって適当なもので妥協するのは絶対に嫌だ。私は、気に入った傘が全然見つからなくて、でも100%好きと言えない傘を持つのが嫌で、ここ5年ほど薄汚いビニール傘を使い続けている女である。手帳だって中途半端なものを持つくらいだったらミスドのスケジュールンでええわ! と逆切れしそうになる。
ちなみに調べてみたのだが、現在のシステムだとミスドのスケジュールンを手に入れるには300円で1枚貰えるカードを8枚集める必要があり、単純計算で2400円かかり、下手な手帳よりよっぽど高かった。


 後輩に文房具が好きな子がいて、ツイッターなんかで時々新しい文房具のことをツイートする。それを見て、咲く花が変わるのを見て季節が変わるのを感じるように、今はこういうのがあるんだなあとか、進化してるんだなあと知る。彼女は私にとって、文房具界に開く窓みたいなものだ。
 そんな彼女はもちろん手帳についても並々ならぬこだわりがあり、毎年私には及びもつかない時期から来年の手帳の検討を開始する。自分が欲しいものを明確にし、情報を集め、検討を重ねて選択肢を絞り込んでいく。その情熱は、ツイッター越しにも伝わってくる。ああ、なるほどと思った。
 私も手帳にこだわりはある。でも情熱がない。窓から見える素敵な文房具や雑貨に時々目を奪われるけど、部屋の中にはそれよりもっと好きなことややりたいことが山積みになっていて、それ以外にエネルギーを傾けている暇がないんだ。
 本当に求めている手帳ならわざわざ探しに行かなくたって、古い少女漫画で食パンくわえたヒロインが曲がり角で王子様と出会うみたいに、私の前に現れるだろう。そんな感じで運命って言葉に都合よく押しつけて、今年も私は手帳を探さない。