2015年2月21日土曜日

プラスマイナス


 人は新陳代謝によって、約3ヵ月で全身の細胞が入れ替わるのだとかいう。
1人暮らしを始めてから料理をするようになって、ほぼ毎日3食自分の作ったものをべている。家を出たのが12月末だから、今の私の体の3分の2は私の作ったもので構成されているということになるのだろうか

年度末が近づいて、呑気なうちの会社も少しずつ忙しくなってきた。時計の針が一回り遅い時間に帰宅して夕食を食べるとそこで力尽きた。皿も洗わなければいけないし風呂にも入らなければならないとわかっていたけれど、ちょっとだけ、のつもりで横になったら目が覚めたのは夜中の3時だった
流しにたまった皿を見てうんざりしてしまって、全部明日に回して着替えて寝てしまおうかと思ったが、明日は燃えるごみの日だ。一度逃すとえらいことになると既に経験済みだから、こいつだけはやっつけておかなければ寝られない。ごみ箱や流しの生ごみを集めて袋にまとめ、屋内ごみ捨て場なんて気の利いたものはないから上着を羽織って外へ出て、何製なのか重たい金属のダストボックスに放り込む。そんなことをしてたら眠気はどっかにいってしまって、今全部片づけてしまうことにした。

洗う暇のなかった朝食の分と、弁当箱と、夕食の分と調理器具、狭いシンクの中でちょっとした山を形成している皿を黙々と洗う。その間に、ここまできたら風呂でも入ってやろうと湯船に湯を溜めた。
風呂釜に追い炊き機能がついていないので、なかなか風呂には入れない。残り湯は明日の洗濯に使おうと心に決めながら久々の湯船に浸かった。「至福」と思いこもうとしたが、50度近くに設定したはずの湯はあっという間にぬるくなっていく。それでも、せっかくここまで溜めたのだからと貧乏人根性ですぐには出られない。
 
当然脚を伸ばす広さはない湯船の中で、体の温まる実感も得られないまま湯に浸かりながら、私はちゃんとやれているだろうか、と思う。
毎日毎日飽きもせず、寝て起きて食事をしてシャワーを浴びる。大した生産性もないのに3食プラスおやつも食べる。体を洗えば垢が出て、髪を洗えば排水口には抜け毛がたまる。ごみの日には、自分1でもごみ袋はそれなりにいっぱいになる。
この生活で私が生み出すプラスと消費し浪費するマイナスは到底釣り合いそうもない。続ければ続けるほどマイナスがかさむばかりのように思える。社会貢献とか人助けとかそういう話ではない、私個人の人生の収支の問題として。

 人生なんて、そうそうプラスにはならないのかもしれない。最終的になんとかプラスマイナスゼロに帳尻を合わせようとする試行錯誤なのかもしれない。ならばまずはせめてゼロでありたいと思う。私にとってのゼロというのは、自分のことを自分でできるということで、「ちゃんとやる」という言葉の意味だ。

 自分で作って自分で食べて、こうやって生活を続けていけば、いずれ私のほとんどは私自身によって構成されるようになるだろう。決して100%にはならないにしても。そうしてゼロになった先で、最後の最後には、私の針がほんのわずかでもプラスにふれていてくれることを、ぬるい浴槽の中で願った。

2015年2月11日水曜日

女子校の男役

 私は中学高校と女子校に通っていた。
当然同級生には見たわす限り女しかいないわけだが、その中に「男役」をやる子が何人かいた。
男役ってなんだよって、うまく説明できないのだが、例えば、クラスメイトのことをかわいいかわいいとやたら褒めたり、過剰に女の子扱いしてエスコートしたり、あるいはおちゃらけたキャラクターで「ネタにされてもいい」「いじってもいい」という、たぶん共学だったら男の子がついていたんであろうポジションに納まっている子がいたのだ。そういう子は、全部がそうというわけじゃないけれど、大概背が高かったりほかより体格が良かったり、髪が極端に短かったりした。
 
勘違いをしてほしくないのだけど、あれはボーイッシュとか男勝りとかいう生来の気質とは全然別のものだった。彼女たちは一様に、そういう男役を「演じていた」。
私は同い年の女の子をちやほやしてあげるなんて絶対嫌だったし、逆にもてはやされるのも居心地が悪かったからその行動は全然理解できなかったけれど、あえて言うならあれはサービス精神だったのだと思う。女しかいない環境で、女の子を女の子扱いしてあげる役割を自ら買って出てくれていたのだ。 


高校を卒業して、私を含め同級生は大概みんな大学に進学した。女子大じゃない限り、そこには当然男がいる。今まで何も考えていなかったのが「男の目」というものを急に意識しだして、私たちは慌てて化粧を覚えたり洋服に気を使うようになって、四苦八苦しながら色気づく
「男役」を演じていた子たちも、本物の男が出現したことによってその役割から解放される。○○に彼氏ができたらしいよ、ラブラブらしいよ、なんて話を風の噂に聞くと、なんか不思議なような、おかしいような気持ちになる。なんだよ、やっぱただの女の子だったんじゃん。

 Facebookというのは恐ろしいツールだと思う。ひとたび「友達になる」を押してしまうと簡単には外すことができない。コミュニティが変わっても、方向性が遠く離れても、タイムラインに上がればその人の今が見える。
同級生たちの中で大きな変貌を遂げる人がいないわけではないけれど、だいたいみんなそんなには変わっていなくて、高校生のときの延長線上にいるのがわかる。
そういう中で、かつて「男役」だった子がめちゃくちゃ女らしくなっているのを見ると、ちょっとなんか、びっくりする。髪を巻いて、ふんわりした素材の服を着て、一番かわいい「完璧な角度」で映っている写真を見ると怖くなる。
平等に年を取っているから個人差はあれみんな少しずつ女らしくなっていくけれど、彼女たちにはそういう自然の変化だけじゃなくて、かつて「男役」だった反動みたいなものが加わっているように見えるのだ。
それを見ると、私はいつもよくわからないもどかしい感情に囚われる。そういう服着たいんじゃん。かわいいもの好きなんじゃん。女の子扱いされたかったんじゃん。それなら、高校生のあの時だってそれでよかったのに。


どうしてあのころ、「みんなで女の子」でいられなかったのだろう。男役なんていなくたってどうにでもなったはずなのに。それともそう思っていただけで、私たちは無意識に「男役」を必要としていたのだろうか。自分が「女の子」でいるために誰かを犠牲にしていたのだろうか。責任感の強い人がいつでも貧乏くじを引かされるみたいに、彼女たちに「男役」を強要していたのだろうか。あれは本当に、彼女たちのサービス精神だったんだろうか。

 彼女たちのかわいさが、私には復讐みたいに見える。そんなの勝手な想像で、思い込みで、たぶんこういう風に思われることこそ彼女たちが一番嫌がることなんだろうけど、私はとても怖い。
 本当は「女の子」しかいなかったあの場所で、「男役」を生み出させた見えない怪物の存在が。それが、もしかしたら自分だったかもしれないことが。

2015年2月8日日曜日

お早めにお召し上がりください。

 言葉はなまものだ。頭に浮かんだ直後から劣化していく。

 こうして日常的にブログを書くようになってからは特に、私は日々、ネタになることがないかと目を光らせて生活している。ただ、いいフレーズとか書きたいことを見つけても、当然ながらいつもすぐに書き出せるわけではないから、手帳なんかにアイデアの断片を書きつけておく。
 だけど、さて書こうとパソコンの前に座ってみると、自分が何を言いたかったのかもうわからなくなっている。もちろん手帳を見ればキーワードは残っているから、そこから思い出していくのだけど、既に「思い出す」という手順が必要になるくらい、その瞬間の感情からは遠ざかっているのだ。

 この言葉の劣化速度にはおそるべきものがある。生卵よりも桜の花よりもひどい。光速とは言わないが、ジェット機くらいの速さで腐っていく。砂が風に飛ばされていくように容赦なく「ほんとうのこと」が失われていく中でなんとかそれを形に残そうとする、文章を書くことはいつもいつもその繰り返しだ。

 
 ある程度の長さの文章を、テーマから大きくぶれることなく書くためには構成が必要になる。書きたい要素を挙げ、話の流れを決め、並べ替えたり削ったりしながら手触りよく見栄えよく仕上げていく。
だけど、そうやってこねくり回しているうちにも言葉は駄目になっていく。人の気持ちなんて実際にはガタガタでぐちゃぐちゃで支離滅裂なはずのものを、わかりやすくきれいなものへと加工するのだから、どんどん不純物が混ざって本来の形から変容していくのは当たり前だ。
ほんとうのことを切り取りたいと思うのに、工夫すればするほど、時間をかければかけるほど偽物になっていく。

 最近、田口ランディのエッセイを読んだのだけど、そこに少しだけ似たようなことが書かれていた。

『昨年、私は屋久島の自然と人間について書いたエッセイ集を出した。それを執筆している時にいつも感じたのは、書けば書くほど「屋久島」という自然から遠ざかっていくもどかしさだった。自然について書こうとすると、文章から意味がはぎとられていく。しかしそれではなにかこう心に訴える感動のようなものがない気がして、私はとにかく自然の中に意味を意味を意味を探し続けた。精神的な意味、科学的な意味、神話的な意味。
 でも、その作業を続けながら、なにかがうと思っている自分がいる。』
(『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』田口ランディ)

 言葉に無理矢理特別な意味を付与しようとする「あざとさ」が、かえってその本質から離れさせてしまうのだ。
 同じレベルで語るのはおこがましいけれど、うまく伝えようとすればするほど言葉が空回りしていく感覚は私にもわかる。

 もしかしたら、言葉というツールはそもそも何かをありのままに表現するのには向いていないのかもしれない。
 言葉はもともと不完全で欠陥だらけの代物だ。使う人間も不完全だ。表現しきれなくていらいらしたり、伝わらなくてもどかしいことがいくらでもある。
 だけど、会話するにも手紙を書くにも言葉が要る。言葉でしかコミュニケーションできない場面に無数に出くわす。私たちは言葉を使うしかなくて、言葉が不完全だからこそ、本当に何かを伝えたいときに必死になる。

「言葉を尽くす」という言葉が好きだ。そこに垣間見える本気と情熱が好きだ。それだけは本物だと思う。だから私は言葉が好きだ。
 そうやって、ほんの一瞬でもほんとうのことが光る瞬間があるのなら、私はいくらでも書く。なまもので、あっという間に嘘になる言葉を使って。