2014年4月29日火曜日

利己的な性善説

『重力ピエロ』伊坂幸太郎

について書く。


『人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こる。』
 性善説である。そして私は性善説論者である。正確に言うと、この孟子の教えの前半部分に特化して、「人間は本来的には悪を憎み善を目指す心を持っている」と考えている。誰でもみんな本当は、最初は、良い奴だったはずだよね、ということである。だって、みんななんだかんだ勧善懲悪ものが好きだし、できれば悪役よりヒーローになりたいんじゃないだろうか。ここではその思想を、便宜的に性善説と呼ばせていただく。
悪いことは悪く、良いことは良い。非常に単純明快な思考だ。……だけど、一つの出来事について、善と悪が表裏一体となっている場合、性善を有する私たちはそれをいかにジャッジすればいいんだろう?


『重力ピエロ』の語り手・泉水。彼の弟・春は、彼らの母がレイプされてできた子どもだ。冒頭でその事実は明かされ、泉水の自問を通して読者である私たちに、物語の終わりまで枷のようにまとわりつく重い問いを投げかける。

問い:『レイプでできた子どもを産むことは正しいか否か?』

即答できる人は多くないだろう。悩んだ末に正否の答えを出す人もいれば、泉水と同じように、「レイプは悪だが、春が生まれたことは間違いではない」と結論を出さない人もいるだろう。そもそも、こんなの答えのある質問じゃない!と憤慨する人もいるかもしれない。まさしくその通りで、『試験問題や○×クイズではないのだから』正答など存在しない。けれど、答えがないとわかっていても泉水は繰り返し自問する。物語の向こうで、伊坂幸太郎が私たち読者たちにも解答を要求しているのだ。まるで私たちの中の性善が、中途半端は許さぬ、白黒つけよと、悪を定めて断罪せよと迫るように。

けれど、では、正しさとは一体なんだろう?私たちはどのように善と悪を線引きしているのだろう?
兄弟の父親は、妻から妊娠を告げられたとき、春を産むことを決断した。泉水もそれは正解だと思っている。けれど自分の妻がもし同じ目に遭ったなら、たぶん産ませないだろうと考える。
かつての連続レイプ犯である葛城という男は「強姦は悪ではない」と自信満々に言う。
『俺は気持ちいいだけで、苦しいのは別の人間なんだ。犯罪の快楽は俺にあって、犯罪の被害は、俺の外部にある、ということは、強姦は、悪じゃない』
読んでいて胸糞悪くなる台詞だ。筋の通らぬ屁理屈だ。けれど重要なことは、周りがどう思おうと、葛城にとって強姦は悪ではなかったということだ。
クライマックスで、落書きと放火を重ねてきた春が遂に血縁上の父である葛城を殺す。殺人に放火、社会的に考えれば春は完全に悪人だ。けれど、物語を読み進めながら泉水とともに答えのない自問を繰り返し、春の苦悩を慮ってきた私には、春を父親殺しの極悪人だと糾弾することはできない。よくやったとさえ言いたくなっている。
ここに並べただけで、いくつもの矛盾と価値観の多様さが浮き彫りになっている。私たちは、なるべく正しくありたいし、できれば悪役よりヒーローになりたい。けれど正しさなんてものがいかに不確かなものであるか、伊坂幸太郎は嫌というほど突きつけてくる。その上で、冒頭の問いへの答えを求めてくるのだ。


結論のない問題について考え続けるのは苦痛だ。苦痛なら思考を止めてしまえばいい。自分が正しいという証拠集めは放棄して、悪だと開き直ってしまえばいい。当初から葛城への断罪を心に決めていた春は兄に言う。
『そのことは忘れないでほしい。絶対に。俺は正真正銘の悪人なんだ』
 葛城を殺した後にも、同じように、まるで無理やり出した答えで暗示をかけるように繰り返す。
『世の中では、これは悪いことで、俺はたぶん、狂人のたぐいだ』
『俺は許されないことをやったんだ』
 春は思考を放棄した。自分を止められないとわかっていたし、自分の行いが社会的に許されないと知っていた。だから、自分を「悪」だと決めて、それ以上考えるのを止めてしまった。
だけどそんな弟に泉水は、自首の必要はない、と言う。
『おまえは許されないことをやった。ただ、俺たちは許すんだよ』
人殺しの、犯罪者の弟に。
彼自身の性善説のままに。


恥ずかしながら、伊坂幸太郎の作品を読んだのはこれが初めてだ。推理作家の名手と謳われているからとミステリーを期待して読んでみて驚いた。何しろ派手で不可思議な事件は起こらないし、トリックもなければ意外な結末も訪れない。むしろ物語は、見通しの良い道を歩くみたいに平坦な展開を予定調和に進む。頭をひねらなくても連続放火の犯人が春であることも、葛城がかつてのレイプ犯であることも、郷田順子が「夏子さん」であることも容易に予想できる。この作品を連続放火事件を大筋として読むなら、とんだ三文ミステリーだ。けれど、この作品の本質はそこではないのだ。
推理小説を定義づける要素の一つとして、作者と読者の知恵比べがある。つまり、作者の出した問いに読者が答えるというものだ。この一点において、伊坂は強いメッセージを持って私たちに問いかけている。『重力ピエロ』におけるそれは、犯人当てでもトリックを見破ることでもない。「善悪とは何か?」それが、終始一貫して伊坂が私たちに投げかけている謎なのだ。
この問いに解答はない。算数のドリルのようにページをめくれば答えが用意されているわけではない。善悪の実態は曖昧模糊で、性善など利己的なものでしかない。でも、だからこそ、私たちは自分自身にとっての善と悪を持つべきなのだ。神様はいない。いたとしても正答へは導いてくれない、ただ「自分で考えろ!」と怒鳴るばかりだ。
泉水は、春を許した。社会的に、法律的に、道徳的に倫理的に間違っていても、自分だけは許すと決断した。泉水の出した答えは、あなたの性善にとって善だろうか、悪だろうか。