2014年10月24日金曜日

遠い人

知り合いが亡くなった。
正確に言えば、半年も前に亡くなっていたのを知らされた。
メールで受けたその報せの意味が、私にはよくわからなかった。1年前に会ったその人が、もうこの世に存在しないのだということが、頭の中で何度メールの文面を反芻しても理解できなかった。


彼女がなぜ亡くなったのか、理由は記されていなかった。メールを受け取ったあと私はすぐ、彼女のフェイスブックや、ラインのアカウントを確認した。彼女が現実に存在した人物だということを確かめたかったのかもしれないし、余りにも唐突で現実感がなかったから、その死を確かな形で感じられる何かを探していたのかもしれない。その日、フェイスブックの彼女のページには、『誕生日は3日前でした。』と表示されていた。
彼女は私より1つ年上で、24歳だった。明るくてよく気のつく人で、ギャルで、話すのが早くて、会話のテンポの悪い私はそこが少し苦手だった。1年前飲み会の時、丁度就職してそれぞれの生き方が別れる時期だったから、この中にはもう2度と会わない人がいるかもしれないのだなあと考えていた。その中の1人だった。もう会わないかもしれない、私も向こうも互いに思い出すことさえないかもしれない。でも私に見えないところで、それぞれの人生はずっと続いていくのだと、信じるよりも当然に思っていた。
なぜ私は生きていて、彼女は死んだのだろう。そこに大きな違いがあるようには思えなかった。彼女は25歳になれなかった。私は今23歳だ。私が24歳になれるかどうかなんて、誰も保証してくれない。明日生きているかどうかさえわからない。頭の中には、次々と友達や知り合いの顔が浮かぶ。今この瞬間、私の目の前にいないすべての人たちは、本当に生きているのだろうか?
2度と会えなくてもいい、私の人生と関わりなどなくてもいい、ただ生きていてくれればいいと思った。こんなの感傷が過ぎるよな。だけど今まで自分も周りの人間も健康で元気で『死』なんてものとは縁遠く暮らしてきた私は、初めて死というものが、道端の石ころのようにすぐそこに転がっているものだと知った。足元も見ずに歩いているけれど、生きることは、細い細い綱の上を渡るようなものなのだと。


その日の帰り道ずっと、喉の奥には大きな塊がつまったようにひどく痛んだ。苦手だったけれど、もう2度と会わないかもしれないと思っていたけれど、それでも同じ時間を共有していた彼女は私の中に確かに存在していて、彼女は私からその部分をもぎ取って行ってしまったのだ。この感情が一体何なのか、私にはわからない。あるいはこれを悲しみとか、喪失とか呼ぶのかもしれない。

すれ違うことさえ2度となかったとしても、生きてさえいてくれればよかったんだ。喉の奥には、たぶんそういう言葉がつまっていた。

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