2014年10月15日水曜日

はじめてのこと

 はじめてのことをするのが苦手だ。
 うまくできなくて失敗するかもしれないし、恥をかくかもしれないことが嫌だ。
もちろんはじめてなのだからうまくできるわけがないし、あるいは逆に天賦の才を発揮する可能性だってあるわけなのだけど、そういうことを全部ひっくるめて、要はどうなるのか予測が立てられない状態に置かれるのが嫌なのだ。
私はコミュニケーション能力が低いので(なんて、みんなが口を揃えて同じことを言うけれど)、人との会話やリアクションは感覚ではなく理屈で行っている。こうしたら受けるだろうなとか、こう答えて欲しいんだろうなとか、こう言ったらどう思われるかなとか、全ての事柄について1度理性の検閲を通してからでないと表に出せない。だから、予想の立てられないことや、考える暇のない瞬発力を必要とするものや、頭を経由できない身体を駆使する行為が苦手だ。いつからか、苦痛なほどに苦手になっていた。


生まれた時から内気でインドアで周りの目ばかり気にしているような子どもだったので、生来そういう性質を持っていたのは確かだけれど、それでも子どもだから大人に従って、学校や家で次々与えられる授業やら習い事やらの課題を、苦手なりに端からこなさざるを得なかった。だが、大人の言うことを馬鹿正直に聞く必要なんてないことが、成長するにつれて段々とわかってくる。
高校の体育の授業を思い出す。女子高生というものは、とかくまじめに体育をやらない。自分の番以外はずっと隅っこでお喋りしていたり、生理だからと適当なことを言って休んだり、ジャージの着こなしの方が重要だったりする。それは、必死に格好つけてるのに体育なんかやってられるかということかもしれないし、出席さえしていればなんとかなるとわかってしまったからかもしれないし、周りがだるい雰囲気を醸し出す中自分一人張り切るわけにいかないからかもしれない。とにかく真剣にはやらないし、やれない。そういう場所で、私も女子高生だった。
もちろん、みんなそれぞれに熱意を注いでいたものがあったのだと思う。私にだってあった。だけど、40人近いクラスで学校指定のジャージを着て校庭に整列した時の、溶けたアイスクリームみたいな空気は、もうどうしようもなかった。
大学生になってしまえばそれはもっと顕著で、やりたくないことなんか全部スルーできる環境で何年も過ごした。楽しいばかりの日々で、苦手なものはもっと苦手に、やったことのないことに対しては更に頑なになっていった。


焦りのようなものはずっと抱えていたのだと思う。楽しさの裏で、自分の弱点が克服できないままに根深く、大きくなっていくのを感じていた。
ある時、このままだと駄目だと思った。やったことのないことを嫌い、排除し続けていけば私の人生は先細りして、いずれ何もなくなってしまう。そして、そうなった時にはもう、色んなことが取り返しがつかなくなっている気がした。
それから私は、色んなことをとりあえず「やってみる」ことにした。行くか行かないかなら「行く」。やるかやらないかなら「やる」。やりたくなくても「やりたい」と言うようにした。そうしてやってみた今まで避けてきたあれこれの「はじめて」は、どれも面白かった。マラソンもボーリングもスカッシュもスマブラも、知らない人ばかりの飲み会も苦手な人に声をかけることも自分の書いた文章を人に読んでもらうことも。いつでもいい結果ばかりだったわけではないけれど、どれももう一度やってみたいと思う。

 既に確立されてしまった人格が、今さら大きく変わるとは思っていない。相変わらず考えてからじゃないと話せないし、はじめてのことは苦手だ。できれば自分の好きな人達と、得意なことにだけ埋もれて暮らしたい。だけど、それでも「やる!」と言った数だけ、今までの私が辿りつけなかった場所を近づけてくれるんじゃないかと、そういう期待をしている。

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