2014年10月24日金曜日

遠い人

知り合いが亡くなった。
正確に言えば、半年も前に亡くなっていたのを知らされた。
メールで受けたその報せの意味が、私にはよくわからなかった。1年前に会ったその人が、もうこの世に存在しないのだということが、頭の中で何度メールの文面を反芻しても理解できなかった。


彼女がなぜ亡くなったのか、理由は記されていなかった。メールを受け取ったあと私はすぐ、彼女のフェイスブックや、ラインのアカウントを確認した。彼女が現実に存在した人物だということを確かめたかったのかもしれないし、余りにも唐突で現実感がなかったから、その死を確かな形で感じられる何かを探していたのかもしれない。その日、フェイスブックの彼女のページには、『誕生日は3日前でした。』と表示されていた。
彼女は私より1つ年上で、24歳だった。明るくてよく気のつく人で、ギャルで、話すのが早くて、会話のテンポの悪い私はそこが少し苦手だった。1年前飲み会の時、丁度就職してそれぞれの生き方が別れる時期だったから、この中にはもう2度と会わない人がいるかもしれないのだなあと考えていた。その中の1人だった。もう会わないかもしれない、私も向こうも互いに思い出すことさえないかもしれない。でも私に見えないところで、それぞれの人生はずっと続いていくのだと、信じるよりも当然に思っていた。
なぜ私は生きていて、彼女は死んだのだろう。そこに大きな違いがあるようには思えなかった。彼女は25歳になれなかった。私は今23歳だ。私が24歳になれるかどうかなんて、誰も保証してくれない。明日生きているかどうかさえわからない。頭の中には、次々と友達や知り合いの顔が浮かぶ。今この瞬間、私の目の前にいないすべての人たちは、本当に生きているのだろうか?
2度と会えなくてもいい、私の人生と関わりなどなくてもいい、ただ生きていてくれればいいと思った。こんなの感傷が過ぎるよな。だけど今まで自分も周りの人間も健康で元気で『死』なんてものとは縁遠く暮らしてきた私は、初めて死というものが、道端の石ころのようにすぐそこに転がっているものだと知った。足元も見ずに歩いているけれど、生きることは、細い細い綱の上を渡るようなものなのだと。


その日の帰り道ずっと、喉の奥には大きな塊がつまったようにひどく痛んだ。苦手だったけれど、もう2度と会わないかもしれないと思っていたけれど、それでも同じ時間を共有していた彼女は私の中に確かに存在していて、彼女は私からその部分をもぎ取って行ってしまったのだ。この感情が一体何なのか、私にはわからない。あるいはこれを悲しみとか、喪失とか呼ぶのかもしれない。

すれ違うことさえ2度となかったとしても、生きてさえいてくれればよかったんだ。喉の奥には、たぶんそういう言葉がつまっていた。

居場所

誰といても気を使われている気がするし、どこにいても仲間に「入れてもらっている」気がする。そういう感覚が、ずっとずっと消えなかった。
 いつも爪先立ちで過ごすような気持ちだった。会話の流れを止めたくなかったし、同じタイミングで笑いたかったし、こっそり秘密を打ち明けてもらいたかった。友達になってもらうのではなくて友達になりたかった。だけど、どれもあんまりうまくできなかった。なんとかその場に馴染みたくて、ある時は相手の言うことに全てに賛同してみたり、逆に極端なことばかり言って存在感を示そうとしてみたり、また別の時には向こうから声をかけてもらうまでだんまりだったり、もがくみたいに色んなことを試してきた。でも、それは形の合わないパズルのピースを無理矢理はめ込んでいるようなもので、そんなことを続けてみてもピースが痛むばかりだった。そんなことを続けて、毎日毎日しんどかった。
誰とでも仲良くなれる人がいる。彼らはたぶん大らかな形状をしていて、誰とでもなんとなくうまいこと当てはまることができる。そういう人を秘かに羨みながら、私は余分なピースのような自分を持て余した。うまく当てはまってくれない社会だとか世界だとかに憤ったりもした。そして、一生歪に余ったまま生きなければならないのかと考えてひどく不安だった。狭い教室という世界で友達らしきものに必死でしがみつきながら、いつまでも陸の見えない海で漂流しているような気分だった。


 溺れそうになりながらなんとかやってきて、私は大学に入った。教室の四角い壁はなくなった。そこにはうんと年上の人もいたし、ものすごく面白い人も、私より話すのが下手な人もいた。苦手な人も嫌いな奴もいた。色んな場所に行って、色んなものを見た。相変わらず喋るのは苦手だったし、プライドの高い嘘つきだったし、扱いにくい奴だったと思う。だけどまれに、私のことをおもしろいと気に入ってくれる人がいた。そういう場所で過ごして、私は少しずつ自分で泳ぐことを覚えていったように思う。


 わかったことがある。居場所なんてものは奪ったり誰かに与えてもらうものではないこと。そうして得た椅子が、自分のお尻に合うとは限らないからだ。そして、運命のようにぴたりと噛みあわなくても、誰かと友達になることはできること。
 誰かに認められたり、愛されたり、気に入られたり、1番にしてもらう必要なんてない。居場所なんて必要ない。誰とも当てはまらなくたって、私が私の形をしてここに存在していることは変わりない。生きている限り。
 そう気づいてから、生きるのは唐突に簡単になった。

 今日もぷかぷか泳ぐ。

2014年10月15日水曜日

はじめてのこと

 はじめてのことをするのが苦手だ。
 うまくできなくて失敗するかもしれないし、恥をかくかもしれないことが嫌だ。
もちろんはじめてなのだからうまくできるわけがないし、あるいは逆に天賦の才を発揮する可能性だってあるわけなのだけど、そういうことを全部ひっくるめて、要はどうなるのか予測が立てられない状態に置かれるのが嫌なのだ。
私はコミュニケーション能力が低いので(なんて、みんなが口を揃えて同じことを言うけれど)、人との会話やリアクションは感覚ではなく理屈で行っている。こうしたら受けるだろうなとか、こう答えて欲しいんだろうなとか、こう言ったらどう思われるかなとか、全ての事柄について1度理性の検閲を通してからでないと表に出せない。だから、予想の立てられないことや、考える暇のない瞬発力を必要とするものや、頭を経由できない身体を駆使する行為が苦手だ。いつからか、苦痛なほどに苦手になっていた。


生まれた時から内気でインドアで周りの目ばかり気にしているような子どもだったので、生来そういう性質を持っていたのは確かだけれど、それでも子どもだから大人に従って、学校や家で次々与えられる授業やら習い事やらの課題を、苦手なりに端からこなさざるを得なかった。だが、大人の言うことを馬鹿正直に聞く必要なんてないことが、成長するにつれて段々とわかってくる。
高校の体育の授業を思い出す。女子高生というものは、とかくまじめに体育をやらない。自分の番以外はずっと隅っこでお喋りしていたり、生理だからと適当なことを言って休んだり、ジャージの着こなしの方が重要だったりする。それは、必死に格好つけてるのに体育なんかやってられるかということかもしれないし、出席さえしていればなんとかなるとわかってしまったからかもしれないし、周りがだるい雰囲気を醸し出す中自分一人張り切るわけにいかないからかもしれない。とにかく真剣にはやらないし、やれない。そういう場所で、私も女子高生だった。
もちろん、みんなそれぞれに熱意を注いでいたものがあったのだと思う。私にだってあった。だけど、40人近いクラスで学校指定のジャージを着て校庭に整列した時の、溶けたアイスクリームみたいな空気は、もうどうしようもなかった。
大学生になってしまえばそれはもっと顕著で、やりたくないことなんか全部スルーできる環境で何年も過ごした。楽しいばかりの日々で、苦手なものはもっと苦手に、やったことのないことに対しては更に頑なになっていった。


焦りのようなものはずっと抱えていたのだと思う。楽しさの裏で、自分の弱点が克服できないままに根深く、大きくなっていくのを感じていた。
ある時、このままだと駄目だと思った。やったことのないことを嫌い、排除し続けていけば私の人生は先細りして、いずれ何もなくなってしまう。そして、そうなった時にはもう、色んなことが取り返しがつかなくなっている気がした。
それから私は、色んなことをとりあえず「やってみる」ことにした。行くか行かないかなら「行く」。やるかやらないかなら「やる」。やりたくなくても「やりたい」と言うようにした。そうしてやってみた今まで避けてきたあれこれの「はじめて」は、どれも面白かった。マラソンもボーリングもスカッシュもスマブラも、知らない人ばかりの飲み会も苦手な人に声をかけることも自分の書いた文章を人に読んでもらうことも。いつでもいい結果ばかりだったわけではないけれど、どれももう一度やってみたいと思う。

 既に確立されてしまった人格が、今さら大きく変わるとは思っていない。相変わらず考えてからじゃないと話せないし、はじめてのことは苦手だ。できれば自分の好きな人達と、得意なことにだけ埋もれて暮らしたい。だけど、それでも「やる!」と言った数だけ、今までの私が辿りつけなかった場所を近づけてくれるんじゃないかと、そういう期待をしている。

2014年10月2日木曜日

金木犀

 フジファブリックのアルバムを聴きながら帰り道を歩く。イヤホンから『赤黄色の金木犀』が流れだす。折しも金木犀の季節、花の形は見えずとも甘い香りが漂って、街全体が秋に浸されているようだ。


 志村正彦が死んだ2009年、私は高校生だった。ある朝友達が沈んだ顔をして教室にやってきて、志村さんが死んでしまった、と言った。別の友達がそれに応え、2人が悲壮な空気になったのを、私は突然異国に放り込まれたような気分で端から眺めていた。その日、家に帰ってYouTubeで初めてフジファブリックの『銀河』を聴いた。
 志村が死んでからその曲を聴き始めた私には、彼の音楽はショパンや夏目漱石と同じ、歴史上の存在だ。永遠に更新されることのない、完結した過去。けれどあの日「志村さんが死んでしまった」と言った友達にとって、それは紛れもなく喪失だったのだ。
 それを思うにつけ、私はフジファブリックに出会ったのが志村正彦の死後で良かったと思う。おかげで私は自分の中から志村正彦を失わずに済んだのだ。彼女達と違って。


「僕は残りの月にする事を
決めて歩くスピードを上げた」

『赤黄色の金木犀』のフレーズを聴きながら、私はあとどれくらい生きられるのだろうと考える。やりたいことを、あといくつできるだろうかと。

 息を吸えば肺いっぱいに甘い空気が満ちる。この季節も、きっとあっという間に終わってしまうだろう。

2014年9月27日土曜日

ガチャガチャ

今日、地元で、セーラームーンのガチャガチャを見つけて、思わず回してしまった。
セーラー戦士5人をモチーフにした5種類のイヤホンチャーム(イヤホンにつけるとキラキラ揺れてかわいい!)という全く実用性のないもので、私自身セーラームーンがすごく好きというわけでもないのだが、その安っぽいデザインがすごくかわいくて、光に吸い寄せられる虫のようにフラフラと、気づけばガチャガチャの前に立っていたのだった。
 1300円。どう考えてもそれほどの価値の代物とは思えないが、社会人の今となってははした金、見よこれが大人の力とばかりにミウミウの財布から出した100円玉を投入してハンドルを回す。出てきたのは、セーラージュピターがモチーフの、ピンクと緑のイヤホンチャームだった。
 改めて、5つのラインナップを眺める。
 タイムリーにセーラームーンを視聴していた幼き頃、私のお気に入りは火野レイ、セーラーマーズだった。今だったら(アニメはもう見ていないけど)、あざとくてチャーミングな美奈子ちゃんが好きだ。チャームのデザインで選ぶなら、心なしか他より豪華なセーラームーンモチーフがダントツにかわいい。セーラーマーキュリーのチャームは水色の色合いがとても綺麗だ。
 何が言いたいかというと、5つの中で1番欲しくないやつが出ちゃったのである。いや、決してジュピターが嫌いという訳ではないけれど、5つも並べられたらやっぱりどれが欲しいとかどれだったらいいとか頭の中で順位づけしちゃうじゃないか。
 というわけで、実物を見るだに安物のイヤホンチャームというわけのわからないもののために、私はもう1度大人の力を発動してガチャガチャを回した。出てきたのはセーラーヴィーナス。青とオレンジのコントラストの強さが小悪魔的。
 ……うーん、見れば見るほどセーラームーンのやつが欲しい。しかしまあ、今日のところはこれで勘弁してやろうと、ゴルフボールくらいの小さなケースを2つ鞄にしまい、ガチャガチャの前を離れたのだった。


 子ども時代、私は1度もガチャガチャをやったことがない。お菓子についている食玩も買ってもらったことは数えるくらいしかないし、駄菓子も買ったことがないし、家の冷蔵庫にジュースの類は全く入っていなかった。漫画というものをちゃんと読んだのは中学生の時が初めてで、ちゃおもりぼんもマーガレットも手に取ったことがない。ゲームボーイも持っていなくて、あったのはスーパーファミコンとプレステ1、以上。今考えると、かなり管理された家庭環境だったのだと思う。
 じゃあ何をしていたのかって、たぶん本を読んでいたのだと思うけれど、それを寂しいとか、他の子が羨ましいとか惨めだとか思ったことは一回もない。不思議なことに。
 もちろんガチャガチャをやってみたいという気持ちはずっとあったけれど、気恥ずかしさと、一度もやったことがないゆえの変なためらいがあって、初めてあの丸いレバーを回したのは大学生の時、20歳を過ぎてからのことだ。たぶん、旭山動物園の動物フィギュアのガチャガチャが人生初だったと思う。
 その、非常にライトなギャンブル感とフィギュアの予想以上の緻密さと、やっとガチャガチャができたという喜びはちょっとしたもので、その頃にはバイトでいくらか自由に使えるお金があったし、その使い方も知り始めていたので、以降事機会さえあればガチャガチャに硬貨を投じるようになった。
 子どもの頃できなかったことを取り返そうとするように、私はブランドものの財布からためらいなく金を出す。今の私は働いて給料をもらっているから、「大人の遊び!」と言いながら友達と23回と気の済むまでトライすることができるし、出てきたフィギュアやらチャームやらを並べて悦に入るところまで含めて非常に楽しい。楽しいけど、だけど、本当に子どもの頃、お小遣いを握りしめて1回こっきりに1番欲しいものを賭けてハンドルを回すその気持ちを、私は知ることができないのだな、と思い知った。
 子どもの頃貧しくて手に入らなかったものとか、親の趣味に合わなくてやれなかった習い事や着られなかった服なんかを、大人になって得た金や自由で手に入れる人は多いと思う。それはそれで達成感や幸福を持つけれど、子どもの頃、本当にそれを渇望していた時に与えられる充足感にはどうしたって及ばない。「あの時」手に入らなかったという過去のコンプレックスは、どうしたって埋めることができない。自分の自由にならなかったからこそ価値があったたった1度のガチャガチャを越える喜びを得ることは、大人になった私にはもうできないのだ。
 手の中のイヤホンチャームは安っぽくてかわいいけれど、ガチャガチャが出来なかった私の中の幼い私は、永遠に寂しいままだ

2014年4月29日火曜日

利己的な性善説

『重力ピエロ』伊坂幸太郎

について書く。


『人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こる。』
 性善説である。そして私は性善説論者である。正確に言うと、この孟子の教えの前半部分に特化して、「人間は本来的には悪を憎み善を目指す心を持っている」と考えている。誰でもみんな本当は、最初は、良い奴だったはずだよね、ということである。だって、みんななんだかんだ勧善懲悪ものが好きだし、できれば悪役よりヒーローになりたいんじゃないだろうか。ここではその思想を、便宜的に性善説と呼ばせていただく。
悪いことは悪く、良いことは良い。非常に単純明快な思考だ。……だけど、一つの出来事について、善と悪が表裏一体となっている場合、性善を有する私たちはそれをいかにジャッジすればいいんだろう?


『重力ピエロ』の語り手・泉水。彼の弟・春は、彼らの母がレイプされてできた子どもだ。冒頭でその事実は明かされ、泉水の自問を通して読者である私たちに、物語の終わりまで枷のようにまとわりつく重い問いを投げかける。

問い:『レイプでできた子どもを産むことは正しいか否か?』

即答できる人は多くないだろう。悩んだ末に正否の答えを出す人もいれば、泉水と同じように、「レイプは悪だが、春が生まれたことは間違いではない」と結論を出さない人もいるだろう。そもそも、こんなの答えのある質問じゃない!と憤慨する人もいるかもしれない。まさしくその通りで、『試験問題や○×クイズではないのだから』正答など存在しない。けれど、答えがないとわかっていても泉水は繰り返し自問する。物語の向こうで、伊坂幸太郎が私たち読者たちにも解答を要求しているのだ。まるで私たちの中の性善が、中途半端は許さぬ、白黒つけよと、悪を定めて断罪せよと迫るように。

けれど、では、正しさとは一体なんだろう?私たちはどのように善と悪を線引きしているのだろう?
兄弟の父親は、妻から妊娠を告げられたとき、春を産むことを決断した。泉水もそれは正解だと思っている。けれど自分の妻がもし同じ目に遭ったなら、たぶん産ませないだろうと考える。
かつての連続レイプ犯である葛城という男は「強姦は悪ではない」と自信満々に言う。
『俺は気持ちいいだけで、苦しいのは別の人間なんだ。犯罪の快楽は俺にあって、犯罪の被害は、俺の外部にある、ということは、強姦は、悪じゃない』
読んでいて胸糞悪くなる台詞だ。筋の通らぬ屁理屈だ。けれど重要なことは、周りがどう思おうと、葛城にとって強姦は悪ではなかったということだ。
クライマックスで、落書きと放火を重ねてきた春が遂に血縁上の父である葛城を殺す。殺人に放火、社会的に考えれば春は完全に悪人だ。けれど、物語を読み進めながら泉水とともに答えのない自問を繰り返し、春の苦悩を慮ってきた私には、春を父親殺しの極悪人だと糾弾することはできない。よくやったとさえ言いたくなっている。
ここに並べただけで、いくつもの矛盾と価値観の多様さが浮き彫りになっている。私たちは、なるべく正しくありたいし、できれば悪役よりヒーローになりたい。けれど正しさなんてものがいかに不確かなものであるか、伊坂幸太郎は嫌というほど突きつけてくる。その上で、冒頭の問いへの答えを求めてくるのだ。


結論のない問題について考え続けるのは苦痛だ。苦痛なら思考を止めてしまえばいい。自分が正しいという証拠集めは放棄して、悪だと開き直ってしまえばいい。当初から葛城への断罪を心に決めていた春は兄に言う。
『そのことは忘れないでほしい。絶対に。俺は正真正銘の悪人なんだ』
 葛城を殺した後にも、同じように、まるで無理やり出した答えで暗示をかけるように繰り返す。
『世の中では、これは悪いことで、俺はたぶん、狂人のたぐいだ』
『俺は許されないことをやったんだ』
 春は思考を放棄した。自分を止められないとわかっていたし、自分の行いが社会的に許されないと知っていた。だから、自分を「悪」だと決めて、それ以上考えるのを止めてしまった。
だけどそんな弟に泉水は、自首の必要はない、と言う。
『おまえは許されないことをやった。ただ、俺たちは許すんだよ』
人殺しの、犯罪者の弟に。
彼自身の性善説のままに。


恥ずかしながら、伊坂幸太郎の作品を読んだのはこれが初めてだ。推理作家の名手と謳われているからとミステリーを期待して読んでみて驚いた。何しろ派手で不可思議な事件は起こらないし、トリックもなければ意外な結末も訪れない。むしろ物語は、見通しの良い道を歩くみたいに平坦な展開を予定調和に進む。頭をひねらなくても連続放火の犯人が春であることも、葛城がかつてのレイプ犯であることも、郷田順子が「夏子さん」であることも容易に予想できる。この作品を連続放火事件を大筋として読むなら、とんだ三文ミステリーだ。けれど、この作品の本質はそこではないのだ。
推理小説を定義づける要素の一つとして、作者と読者の知恵比べがある。つまり、作者の出した問いに読者が答えるというものだ。この一点において、伊坂は強いメッセージを持って私たちに問いかけている。『重力ピエロ』におけるそれは、犯人当てでもトリックを見破ることでもない。「善悪とは何か?」それが、終始一貫して伊坂が私たちに投げかけている謎なのだ。
この問いに解答はない。算数のドリルのようにページをめくれば答えが用意されているわけではない。善悪の実態は曖昧模糊で、性善など利己的なものでしかない。でも、だからこそ、私たちは自分自身にとっての善と悪を持つべきなのだ。神様はいない。いたとしても正答へは導いてくれない、ただ「自分で考えろ!」と怒鳴るばかりだ。
泉水は、春を許した。社会的に、法律的に、道徳的に倫理的に間違っていても、自分だけは許すと決断した。泉水の出した答えは、あなたの性善にとって善だろうか、悪だろうか。

2014年3月16日日曜日

吉本ばなな『キッチン』に見るノンセクシャル



『キッチン』では、それぞれ近しい人の死に直面した若いの男女が、寄り添って喪失を乗り越えながら、同時に自分たちの関係性を見つめ、見出していく物語である。
幼い頃に両親を亡くし、祖母と二人暮らししていた主人公・桜井みかげはその祖母を喪う。天涯孤独となった彼女を拾ったのは、祖母の花屋の客で、同じ大学の田辺雄一だった。
元父である母――整形し、性転換した現母のえり子さんと二人で生活する雄一は、みかげに自分たちの家に住むよう勧める。祖母と暮らした一軒家を出たみかげは、勧めに応じて雄一の家で奇妙で温かい共同生活をするようになる――。


『キッチン』には性描写が一切出てこない。傷ついた年頃の男女が一つ屋根の下で暮らす、という格好のシチュエーションでありながら、みかげと雄一が性的な関係を持つことはないし、そういった素振りを匂わすこともない。
『キッチン』の続きである『満月――キッチン2』でえり子さんの死に直面した雄一がみかげに「ずっとここに住めばいいのに」と零す。みかげは問う。

《「二人で住むのは、女として? 友達としてかしら?」》
 雄一は言う。
《「自分でも、わからない。」
「みかげがぼくの人生にとってなんなのか。ぼく自身これからどう変わっていくのか。今までと、なにがどう違うのか。そういうことのすべてがさっぱりわからない。」》

 年頃の男にしては驚くべき淡白さだ。だが、性描写がないからと言って、この作品が少女漫画のように生々しさを排した潔癖のおとぎ話なわけではない。『キッチン』において「食べること」が性行為の代替表現になっているというのは、しばしば指摘されることである。
人体に空いた孔と、そこに何かを入れる/出す行為は全て性的な意味を持ちうるのだと言う。
という書き方をすると、いやセックスは穴に棒を出し入れするんだからそのまんまだろ、という感じだが、いやいや体の孔は膣だけではない。口もあれば鼻も耳も孔があいている。尻の穴もある。排泄行為に伴う快感は性的快感に繋がっているのだそうだ。そして、「食べること」は、口と言う孔を通して体内に異物を取り込む行為だ。
性行為ってのはつまり、自分の内側に異物(他者)を受け入れたり、受け入れてもらったりすることなのだろう。そういう意味では、セックスにだって様々な形がある。
みかげは雄一の家のキッチンで料理を作り、それを雄一に「食べさせる」。彼らは同じものを食べることで、自分の内側に自分以外の存在を受け入れている。そういうやり方で、みかげと雄一は繋がっているのだ。
 だが、そういう関係性が一般的かと言えばもちろんそうではない。みかげにしても雄一にしても、元々愛情の示し方が普通と違うことについては物語の随所でそれとなく示されている。

《「でも、君の好きとか愛とかも、俺にはよくわかんなかったからなあ。」》
《田辺の彼女は一年間つきあっても田辺のことがさっぱりわかんなくていやになったんだって。田辺は女の子を万年筆とかと同じようにしか気に入ることができないのよって言ってる。》

 彼らは恋人同士ではないし、血縁のある家族でもない。男女が同じ家で暮らすことが周りからどう見られるか分かっていても、性的接触を持たない二人はその関係性を正しく表現する術がない。
名前のつかない二人の関係を、周囲もまた理解することができない。
人は自分に理解できないものを恐れる。暗闇、永遠、宇宙、死後の世界。解明されていないもの、説明できないものを恐れ、次にはそれを否定したり、批判したり、自分の知っているものに無理矢理当てはめて理解の範疇に置こうとする。
 雄一に恋心を抱く奥野と名乗る女性は、みかげの職場に押しかけてまくしたてる。

《「だって、おかしいと思いませんか。みかげさんは恋人ではないとか言って、平気で部屋に訪ねたり、泊まったり、わがまま放題でしょう。」
「私は田辺くんに気落ちを打ち明けたことがあります。その時、田辺くんは、みかげがなあ……って言いました。恋人なの? って私が聞いたら、いや、って首を傾げて、ちょっと保留にしてくれって言いました。」
「みかげさんは恋人としての責任を全部のがれてる。恋愛の楽しいところだけを、楽して味わって、だから田辺くんはとても中途半端な人になっちゃうんです。」》

 恋人と言う枠に嵌まろうとしない二人を、奥野は感情的に非難する。そんなのは普通じゃない、普通じゃないあなたは間違っていると、彼女は逸脱した存在を認めない。
 一方でえり子さんの経営していたゲイバーの店員・ちかちゃんは、見当違いにみかげの背中を押してくる。

《「あんた、あれは愛じゃない? そうよ、絶対に愛よ。ねえ、あたし、雄ちゃんの泊まってる宿の場所も電話もわかってるからさあ、みかげ、追っかけてってさあ、やっちゃえ!」
「こういう時、女がしてあげられることなんてたったひとつよ」》

 ちかちゃんの頭の中には、愛し合う男女がセックスしない可能性なんてかけらも存在しない。身体を重ねることが、絶対で最強の愛情のツールだと信じて疑わないのだ。
 分からないものは怖い。その「怖いもの」と折り合いをつけるために、人は過剰に否定したり分かったふりをしたする。それは一種の防衛本能のようなものかもしれない。
 けれど、それでは分からないものは一生分からないままだ。


 セクシャルマイノリティの一つに、ノンセクシャルというのがある。
 恋愛感情を持ち、性欲がある場合もあり、しかし他者との性的行為は一切望まない人々を指す。みかげと雄一の関係には、このノンセクシャルに通じるものがある。
 惹かれあう若い男女が一緒に暮らしているのにその間に性的接触が全くないのは、傍からすると不自然だ。だけどノンセクシャル的な視点からすると、愛情の表現にそもそもセックスは必要がない。雄一とみかげを繋ぐものも、そういう形をしているんじゃないか。
『キッチン』がセクシャルマイノリティーをテーマとした社会的小説だなんて言うつもりはない。
 ただ、普通じゃない、理解しがたい種類の愛情がこの世には確かに存在するんだということがこの作品の重要なメッセージになっていることは間違いない。それが『満月』の以下の箇所に集約されている。

《……私と雄一は、時折漆黒の闇の中で細いはしごの高みに登りつめて、一緒に地獄のカマをのぞき込むことがある。目まいがするほどの熱気を顔に受けて、真っ赤に泡立つ火の海が煮えたぎっているのを見つめる。となりにいるのは確かに、この世の誰よりも近い、かけがいのない友達なのに、二人は手をつながない。どんなに心細くても自分の足で立とうとする性質を持つ。でも私は、彼のこうこうと火に照らされた不安な横顔をみて、もしかしたらこれこそが本当のことかもしれない、といつも思う。》


 自宅のある東京から遠く離れた地でものすごくおいしいカツ丼に出会ったみかげは、夜中にタクシーを飛ばしてそれを雄一の元へ届ける。そうやって、やっぱり二人は同じものを「食べ」、そのおいしさを、時間を空間を共有する。
物語の終わり、二人は東京で再会の約束をする。みかげの信じる「本当のこと」は、やっぱり社会から認められないし、受け入れられないだろう。彼らはこれからも否定されたり分かったふりをされたりしながら生きねばならないだろう。だけど二人を、理解されない愛に生きるすべての人々を、えり子さんの言葉が優しくまるごと包むのだ。

《「情緒もめちゃくちゃだし、人間関係にも妙にクールでね、いろいろちゃんとしてないけど……やさしい子にしたくてね、そこだけは必死に育てたの。あの子は、やさしい子なのよ」
「ええ、わかります。」
「あなたもやさしい子ね」》