2014年11月24日月曜日

ぼくとあたしと私たち

 小学校に上がるくらいまで、自分のことを「ぼく」と呼んでいた。
 自分のことを男だと思っていたわけでもないし、何に影響を受けたんだか受けていないんだかも定かでないけれど、物心ついた最初の時の一人称は「ぼく」だった。
 親に注意されたような気もするし、自分でもおかしいと思ったのかもしれない。当時周りの女の子たちは自分のことを「うち」と呼んでいたから、私も呼び方を「うち」へと矯正した。私は普通になって、みんなと同じようになって、それから自分のことをなんて呼ぶかなんて気にしなくなった。

 中学生のころ、今度は一人称が「うち」なのはダサいという感覚が急激に広がった。いかした女の子は「うちさあ」なんて田舎者みたいなことは言わない。「あたし」と言うのだ。
「うち」はダサいから使いたくない、だけど散々「うちがうちが」と言い合ってきた友達の前で急に呼び方を直すのは恥ずかしい。呼び方を変えるタイミングがはかれずに悶々と過ごしていると、それまでは気にしたこともなかったのに、そう言えばこの子は最初からあたしって言ってるなとか、こいつこないだまで「うち」だったくせに直しやがった、とかいうことがやたら気になってくる。仲の良かった友達が、ある日しれっと「あたしはさ、」なんて言い出すと、「抜け駆けしやがったな」と「やるなこいつ」というのがないまぜになって複雑な気分だった。とはいえ、もたもたしているとどんどん取り残されてしまう。葛藤を乗り越えて、私もどうにか「あたし」に進化した。

 勝手に命名するけれど、こういう「人称パラダイムシフト」は誰しも一度や二度経験があるはずだ。例えば男の子が「ぼく」を「俺」に変えるとか。「ママ」を「お母さん」にするとか。あだ名じゃなくて友達同士名前で呼び合うことに憧れて呼び捨てにしてみたりとか。初めてその呼び名を使った時の違和感がものすごかったこととか、気をつけてたのについうっかり「うちがさー」って言っちゃったときのいたたまれなさとか、思い出すだけで痒くなってくるような経験が。

 今の自分が嫌で、憧れとか、なりたい自分がいっぱいあったのだと思う。だけど、どうやったらなれるのかがわからなくて、とりあえず形から入って、新しい自分になったことにした。はじめてそれを使った時からどれだけ経ったのか、今の私は我が物顔で「あたし」と言う。だけど、その度に内側から笑われる。全然さまになってないよ、それ。
実際、「あたし」と言う時、私はいつも少し嘘をついている気がする。口から出る言葉が、自分の本心から薄皮一枚二枚離れているのを感じる。さまになっていないのだ。全然、自分のものになっていない。
 みんなと違うのはおかしいと「ぼく」から「うち」になり、格好つけたくて「うち」から「あたし」になった。それまでの自分はなかったことにしてきた。だけど本当はなくなってなんかいない。心の中で本音を言う時に出てくるのは、今でも「ぼく」だ。結局、それが私の本質に一番近いのかもしれない。


 私は良識ある大人だし、三次元のぼくっ娘がイタいこともわかっているから、「自分らしく生きるために今日から一人称をぼくにします!」なんてことはしない。今さら「ぼく」と言うのもそれはそれで違和感があるし。
 代わりに、イタくて恥ずかしくて死んだことにした「ぼく」の棺桶のふたを、ちょっと開けてみる。そこには、取り繕わない子どもの私が寝ころがっていてこっちを見ている。全然死んでない。
 私は「ぼく」にこっそりお願いする。
「今さらそっちにも戻れないけど、「あたし」が言えないことがあるときは、またよろしく」

 そっと戸を閉めたとき、それはもう棺桶ではない。

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