2014年10月2日木曜日

金木犀

 フジファブリックのアルバムを聴きながら帰り道を歩く。イヤホンから『赤黄色の金木犀』が流れだす。折しも金木犀の季節、花の形は見えずとも甘い香りが漂って、街全体が秋に浸されているようだ。


 志村正彦が死んだ2009年、私は高校生だった。ある朝友達が沈んだ顔をして教室にやってきて、志村さんが死んでしまった、と言った。別の友達がそれに応え、2人が悲壮な空気になったのを、私は突然異国に放り込まれたような気分で端から眺めていた。その日、家に帰ってYouTubeで初めてフジファブリックの『銀河』を聴いた。
 志村が死んでからその曲を聴き始めた私には、彼の音楽はショパンや夏目漱石と同じ、歴史上の存在だ。永遠に更新されることのない、完結した過去。けれどあの日「志村さんが死んでしまった」と言った友達にとって、それは紛れもなく喪失だったのだ。
 それを思うにつけ、私はフジファブリックに出会ったのが志村正彦の死後で良かったと思う。おかげで私は自分の中から志村正彦を失わずに済んだのだ。彼女達と違って。


「僕は残りの月にする事を
決めて歩くスピードを上げた」

『赤黄色の金木犀』のフレーズを聴きながら、私はあとどれくらい生きられるのだろうと考える。やりたいことを、あといくつできるだろうかと。

 息を吸えば肺いっぱいに甘い空気が満ちる。この季節も、きっとあっという間に終わってしまうだろう。

2014年9月27日土曜日

ガチャガチャ

今日、地元で、セーラームーンのガチャガチャを見つけて、思わず回してしまった。
セーラー戦士5人をモチーフにした5種類のイヤホンチャーム(イヤホンにつけるとキラキラ揺れてかわいい!)という全く実用性のないもので、私自身セーラームーンがすごく好きというわけでもないのだが、その安っぽいデザインがすごくかわいくて、光に吸い寄せられる虫のようにフラフラと、気づけばガチャガチャの前に立っていたのだった。
 1300円。どう考えてもそれほどの価値の代物とは思えないが、社会人の今となってははした金、見よこれが大人の力とばかりにミウミウの財布から出した100円玉を投入してハンドルを回す。出てきたのは、セーラージュピターがモチーフの、ピンクと緑のイヤホンチャームだった。
 改めて、5つのラインナップを眺める。
 タイムリーにセーラームーンを視聴していた幼き頃、私のお気に入りは火野レイ、セーラーマーズだった。今だったら(アニメはもう見ていないけど)、あざとくてチャーミングな美奈子ちゃんが好きだ。チャームのデザインで選ぶなら、心なしか他より豪華なセーラームーンモチーフがダントツにかわいい。セーラーマーキュリーのチャームは水色の色合いがとても綺麗だ。
 何が言いたいかというと、5つの中で1番欲しくないやつが出ちゃったのである。いや、決してジュピターが嫌いという訳ではないけれど、5つも並べられたらやっぱりどれが欲しいとかどれだったらいいとか頭の中で順位づけしちゃうじゃないか。
 というわけで、実物を見るだに安物のイヤホンチャームというわけのわからないもののために、私はもう1度大人の力を発動してガチャガチャを回した。出てきたのはセーラーヴィーナス。青とオレンジのコントラストの強さが小悪魔的。
 ……うーん、見れば見るほどセーラームーンのやつが欲しい。しかしまあ、今日のところはこれで勘弁してやろうと、ゴルフボールくらいの小さなケースを2つ鞄にしまい、ガチャガチャの前を離れたのだった。


 子ども時代、私は1度もガチャガチャをやったことがない。お菓子についている食玩も買ってもらったことは数えるくらいしかないし、駄菓子も買ったことがないし、家の冷蔵庫にジュースの類は全く入っていなかった。漫画というものをちゃんと読んだのは中学生の時が初めてで、ちゃおもりぼんもマーガレットも手に取ったことがない。ゲームボーイも持っていなくて、あったのはスーパーファミコンとプレステ1、以上。今考えると、かなり管理された家庭環境だったのだと思う。
 じゃあ何をしていたのかって、たぶん本を読んでいたのだと思うけれど、それを寂しいとか、他の子が羨ましいとか惨めだとか思ったことは一回もない。不思議なことに。
 もちろんガチャガチャをやってみたいという気持ちはずっとあったけれど、気恥ずかしさと、一度もやったことがないゆえの変なためらいがあって、初めてあの丸いレバーを回したのは大学生の時、20歳を過ぎてからのことだ。たぶん、旭山動物園の動物フィギュアのガチャガチャが人生初だったと思う。
 その、非常にライトなギャンブル感とフィギュアの予想以上の緻密さと、やっとガチャガチャができたという喜びはちょっとしたもので、その頃にはバイトでいくらか自由に使えるお金があったし、その使い方も知り始めていたので、以降事機会さえあればガチャガチャに硬貨を投じるようになった。
 子どもの頃できなかったことを取り返そうとするように、私はブランドものの財布からためらいなく金を出す。今の私は働いて給料をもらっているから、「大人の遊び!」と言いながら友達と23回と気の済むまでトライすることができるし、出てきたフィギュアやらチャームやらを並べて悦に入るところまで含めて非常に楽しい。楽しいけど、だけど、本当に子どもの頃、お小遣いを握りしめて1回こっきりに1番欲しいものを賭けてハンドルを回すその気持ちを、私は知ることができないのだな、と思い知った。
 子どもの頃貧しくて手に入らなかったものとか、親の趣味に合わなくてやれなかった習い事や着られなかった服なんかを、大人になって得た金や自由で手に入れる人は多いと思う。それはそれで達成感や幸福を持つけれど、子どもの頃、本当にそれを渇望していた時に与えられる充足感にはどうしたって及ばない。「あの時」手に入らなかったという過去のコンプレックスは、どうしたって埋めることができない。自分の自由にならなかったからこそ価値があったたった1度のガチャガチャを越える喜びを得ることは、大人になった私にはもうできないのだ。
 手の中のイヤホンチャームは安っぽくてかわいいけれど、ガチャガチャが出来なかった私の中の幼い私は、永遠に寂しいままだ

2014年4月29日火曜日

利己的な性善説

『重力ピエロ』伊坂幸太郎

について書く。


『人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こる。』
 性善説である。そして私は性善説論者である。正確に言うと、この孟子の教えの前半部分に特化して、「人間は本来的には悪を憎み善を目指す心を持っている」と考えている。誰でもみんな本当は、最初は、良い奴だったはずだよね、ということである。だって、みんななんだかんだ勧善懲悪ものが好きだし、できれば悪役よりヒーローになりたいんじゃないだろうか。ここではその思想を、便宜的に性善説と呼ばせていただく。
悪いことは悪く、良いことは良い。非常に単純明快な思考だ。……だけど、一つの出来事について、善と悪が表裏一体となっている場合、性善を有する私たちはそれをいかにジャッジすればいいんだろう?


『重力ピエロ』の語り手・泉水。彼の弟・春は、彼らの母がレイプされてできた子どもだ。冒頭でその事実は明かされ、泉水の自問を通して読者である私たちに、物語の終わりまで枷のようにまとわりつく重い問いを投げかける。

問い:『レイプでできた子どもを産むことは正しいか否か?』

即答できる人は多くないだろう。悩んだ末に正否の答えを出す人もいれば、泉水と同じように、「レイプは悪だが、春が生まれたことは間違いではない」と結論を出さない人もいるだろう。そもそも、こんなの答えのある質問じゃない!と憤慨する人もいるかもしれない。まさしくその通りで、『試験問題や○×クイズではないのだから』正答など存在しない。けれど、答えがないとわかっていても泉水は繰り返し自問する。物語の向こうで、伊坂幸太郎が私たち読者たちにも解答を要求しているのだ。まるで私たちの中の性善が、中途半端は許さぬ、白黒つけよと、悪を定めて断罪せよと迫るように。

けれど、では、正しさとは一体なんだろう?私たちはどのように善と悪を線引きしているのだろう?
兄弟の父親は、妻から妊娠を告げられたとき、春を産むことを決断した。泉水もそれは正解だと思っている。けれど自分の妻がもし同じ目に遭ったなら、たぶん産ませないだろうと考える。
かつての連続レイプ犯である葛城という男は「強姦は悪ではない」と自信満々に言う。
『俺は気持ちいいだけで、苦しいのは別の人間なんだ。犯罪の快楽は俺にあって、犯罪の被害は、俺の外部にある、ということは、強姦は、悪じゃない』
読んでいて胸糞悪くなる台詞だ。筋の通らぬ屁理屈だ。けれど重要なことは、周りがどう思おうと、葛城にとって強姦は悪ではなかったということだ。
クライマックスで、落書きと放火を重ねてきた春が遂に血縁上の父である葛城を殺す。殺人に放火、社会的に考えれば春は完全に悪人だ。けれど、物語を読み進めながら泉水とともに答えのない自問を繰り返し、春の苦悩を慮ってきた私には、春を父親殺しの極悪人だと糾弾することはできない。よくやったとさえ言いたくなっている。
ここに並べただけで、いくつもの矛盾と価値観の多様さが浮き彫りになっている。私たちは、なるべく正しくありたいし、できれば悪役よりヒーローになりたい。けれど正しさなんてものがいかに不確かなものであるか、伊坂幸太郎は嫌というほど突きつけてくる。その上で、冒頭の問いへの答えを求めてくるのだ。


結論のない問題について考え続けるのは苦痛だ。苦痛なら思考を止めてしまえばいい。自分が正しいという証拠集めは放棄して、悪だと開き直ってしまえばいい。当初から葛城への断罪を心に決めていた春は兄に言う。
『そのことは忘れないでほしい。絶対に。俺は正真正銘の悪人なんだ』
 葛城を殺した後にも、同じように、まるで無理やり出した答えで暗示をかけるように繰り返す。
『世の中では、これは悪いことで、俺はたぶん、狂人のたぐいだ』
『俺は許されないことをやったんだ』
 春は思考を放棄した。自分を止められないとわかっていたし、自分の行いが社会的に許されないと知っていた。だから、自分を「悪」だと決めて、それ以上考えるのを止めてしまった。
だけどそんな弟に泉水は、自首の必要はない、と言う。
『おまえは許されないことをやった。ただ、俺たちは許すんだよ』
人殺しの、犯罪者の弟に。
彼自身の性善説のままに。


恥ずかしながら、伊坂幸太郎の作品を読んだのはこれが初めてだ。推理作家の名手と謳われているからとミステリーを期待して読んでみて驚いた。何しろ派手で不可思議な事件は起こらないし、トリックもなければ意外な結末も訪れない。むしろ物語は、見通しの良い道を歩くみたいに平坦な展開を予定調和に進む。頭をひねらなくても連続放火の犯人が春であることも、葛城がかつてのレイプ犯であることも、郷田順子が「夏子さん」であることも容易に予想できる。この作品を連続放火事件を大筋として読むなら、とんだ三文ミステリーだ。けれど、この作品の本質はそこではないのだ。
推理小説を定義づける要素の一つとして、作者と読者の知恵比べがある。つまり、作者の出した問いに読者が答えるというものだ。この一点において、伊坂は強いメッセージを持って私たちに問いかけている。『重力ピエロ』におけるそれは、犯人当てでもトリックを見破ることでもない。「善悪とは何か?」それが、終始一貫して伊坂が私たちに投げかけている謎なのだ。
この問いに解答はない。算数のドリルのようにページをめくれば答えが用意されているわけではない。善悪の実態は曖昧模糊で、性善など利己的なものでしかない。でも、だからこそ、私たちは自分自身にとっての善と悪を持つべきなのだ。神様はいない。いたとしても正答へは導いてくれない、ただ「自分で考えろ!」と怒鳴るばかりだ。
泉水は、春を許した。社会的に、法律的に、道徳的に倫理的に間違っていても、自分だけは許すと決断した。泉水の出した答えは、あなたの性善にとって善だろうか、悪だろうか。

2014年3月16日日曜日

吉本ばなな『キッチン』に見るノンセクシャル



『キッチン』では、それぞれ近しい人の死に直面した若いの男女が、寄り添って喪失を乗り越えながら、同時に自分たちの関係性を見つめ、見出していく物語である。
幼い頃に両親を亡くし、祖母と二人暮らししていた主人公・桜井みかげはその祖母を喪う。天涯孤独となった彼女を拾ったのは、祖母の花屋の客で、同じ大学の田辺雄一だった。
元父である母――整形し、性転換した現母のえり子さんと二人で生活する雄一は、みかげに自分たちの家に住むよう勧める。祖母と暮らした一軒家を出たみかげは、勧めに応じて雄一の家で奇妙で温かい共同生活をするようになる――。


『キッチン』には性描写が一切出てこない。傷ついた年頃の男女が一つ屋根の下で暮らす、という格好のシチュエーションでありながら、みかげと雄一が性的な関係を持つことはないし、そういった素振りを匂わすこともない。
『キッチン』の続きである『満月――キッチン2』でえり子さんの死に直面した雄一がみかげに「ずっとここに住めばいいのに」と零す。みかげは問う。

《「二人で住むのは、女として? 友達としてかしら?」》
 雄一は言う。
《「自分でも、わからない。」
「みかげがぼくの人生にとってなんなのか。ぼく自身これからどう変わっていくのか。今までと、なにがどう違うのか。そういうことのすべてがさっぱりわからない。」》

 年頃の男にしては驚くべき淡白さだ。だが、性描写がないからと言って、この作品が少女漫画のように生々しさを排した潔癖のおとぎ話なわけではない。『キッチン』において「食べること」が性行為の代替表現になっているというのは、しばしば指摘されることである。
人体に空いた孔と、そこに何かを入れる/出す行為は全て性的な意味を持ちうるのだと言う。
という書き方をすると、いやセックスは穴に棒を出し入れするんだからそのまんまだろ、という感じだが、いやいや体の孔は膣だけではない。口もあれば鼻も耳も孔があいている。尻の穴もある。排泄行為に伴う快感は性的快感に繋がっているのだそうだ。そして、「食べること」は、口と言う孔を通して体内に異物を取り込む行為だ。
性行為ってのはつまり、自分の内側に異物(他者)を受け入れたり、受け入れてもらったりすることなのだろう。そういう意味では、セックスにだって様々な形がある。
みかげは雄一の家のキッチンで料理を作り、それを雄一に「食べさせる」。彼らは同じものを食べることで、自分の内側に自分以外の存在を受け入れている。そういうやり方で、みかげと雄一は繋がっているのだ。
 だが、そういう関係性が一般的かと言えばもちろんそうではない。みかげにしても雄一にしても、元々愛情の示し方が普通と違うことについては物語の随所でそれとなく示されている。

《「でも、君の好きとか愛とかも、俺にはよくわかんなかったからなあ。」》
《田辺の彼女は一年間つきあっても田辺のことがさっぱりわかんなくていやになったんだって。田辺は女の子を万年筆とかと同じようにしか気に入ることができないのよって言ってる。》

 彼らは恋人同士ではないし、血縁のある家族でもない。男女が同じ家で暮らすことが周りからどう見られるか分かっていても、性的接触を持たない二人はその関係性を正しく表現する術がない。
名前のつかない二人の関係を、周囲もまた理解することができない。
人は自分に理解できないものを恐れる。暗闇、永遠、宇宙、死後の世界。解明されていないもの、説明できないものを恐れ、次にはそれを否定したり、批判したり、自分の知っているものに無理矢理当てはめて理解の範疇に置こうとする。
 雄一に恋心を抱く奥野と名乗る女性は、みかげの職場に押しかけてまくしたてる。

《「だって、おかしいと思いませんか。みかげさんは恋人ではないとか言って、平気で部屋に訪ねたり、泊まったり、わがまま放題でしょう。」
「私は田辺くんに気落ちを打ち明けたことがあります。その時、田辺くんは、みかげがなあ……って言いました。恋人なの? って私が聞いたら、いや、って首を傾げて、ちょっと保留にしてくれって言いました。」
「みかげさんは恋人としての責任を全部のがれてる。恋愛の楽しいところだけを、楽して味わって、だから田辺くんはとても中途半端な人になっちゃうんです。」》

 恋人と言う枠に嵌まろうとしない二人を、奥野は感情的に非難する。そんなのは普通じゃない、普通じゃないあなたは間違っていると、彼女は逸脱した存在を認めない。
 一方でえり子さんの経営していたゲイバーの店員・ちかちゃんは、見当違いにみかげの背中を押してくる。

《「あんた、あれは愛じゃない? そうよ、絶対に愛よ。ねえ、あたし、雄ちゃんの泊まってる宿の場所も電話もわかってるからさあ、みかげ、追っかけてってさあ、やっちゃえ!」
「こういう時、女がしてあげられることなんてたったひとつよ」》

 ちかちゃんの頭の中には、愛し合う男女がセックスしない可能性なんてかけらも存在しない。身体を重ねることが、絶対で最強の愛情のツールだと信じて疑わないのだ。
 分からないものは怖い。その「怖いもの」と折り合いをつけるために、人は過剰に否定したり分かったふりをしたする。それは一種の防衛本能のようなものかもしれない。
 けれど、それでは分からないものは一生分からないままだ。


 セクシャルマイノリティの一つに、ノンセクシャルというのがある。
 恋愛感情を持ち、性欲がある場合もあり、しかし他者との性的行為は一切望まない人々を指す。みかげと雄一の関係には、このノンセクシャルに通じるものがある。
 惹かれあう若い男女が一緒に暮らしているのにその間に性的接触が全くないのは、傍からすると不自然だ。だけどノンセクシャル的な視点からすると、愛情の表現にそもそもセックスは必要がない。雄一とみかげを繋ぐものも、そういう形をしているんじゃないか。
『キッチン』がセクシャルマイノリティーをテーマとした社会的小説だなんて言うつもりはない。
 ただ、普通じゃない、理解しがたい種類の愛情がこの世には確かに存在するんだということがこの作品の重要なメッセージになっていることは間違いない。それが『満月』の以下の箇所に集約されている。

《……私と雄一は、時折漆黒の闇の中で細いはしごの高みに登りつめて、一緒に地獄のカマをのぞき込むことがある。目まいがするほどの熱気を顔に受けて、真っ赤に泡立つ火の海が煮えたぎっているのを見つめる。となりにいるのは確かに、この世の誰よりも近い、かけがいのない友達なのに、二人は手をつながない。どんなに心細くても自分の足で立とうとする性質を持つ。でも私は、彼のこうこうと火に照らされた不安な横顔をみて、もしかしたらこれこそが本当のことかもしれない、といつも思う。》


 自宅のある東京から遠く離れた地でものすごくおいしいカツ丼に出会ったみかげは、夜中にタクシーを飛ばしてそれを雄一の元へ届ける。そうやって、やっぱり二人は同じものを「食べ」、そのおいしさを、時間を空間を共有する。
物語の終わり、二人は東京で再会の約束をする。みかげの信じる「本当のこと」は、やっぱり社会から認められないし、受け入れられないだろう。彼らはこれからも否定されたり分かったふりをされたりしながら生きねばならないだろう。だけど二人を、理解されない愛に生きるすべての人々を、えり子さんの言葉が優しくまるごと包むのだ。

《「情緒もめちゃくちゃだし、人間関係にも妙にクールでね、いろいろちゃんとしてないけど……やさしい子にしたくてね、そこだけは必死に育てたの。あの子は、やさしい子なのよ」
「ええ、わかります。」
「あなたもやさしい子ね」》

2014年2月11日火曜日

融雪の街



雪の街を歩くと、いつもと違うものが見える。
20年ぶりの東京の大雪の翌日は一転して小さな春のように温かく、降り積もった雪はあっという間に滴になった。屋根に積もった雪だけがまだ布団のようにふかふかで綺麗だけれど、端に寄せられ、踏まれて茶色くなった道路の雪には人間の生活の匂いがする。ここに住む誰かが雪かきをして、ここで歩く誰かが轍を広げていったのだ。道の端に寄せられた薄汚れた雪の小山が、人々の暮らしの証だ。
街を歩いていたら、駐車場で小さなショベルカーに親子が乗っていた。男の人がショベルカーを操作して雪山を上ると、足の間に座った娘が声を上げて笑った。
交通機関の遅れや、事故や怪我や、雪かきの必要や様々な影響を及ぼした1年に1度振るか降らない
かの雪は、それでも東京に幸せをもたらしていた。

*

 積雪の上を歩くとき、いつもよりも注意深くなる。
 雪の少ないところ、溶けて水たまりになっているところ、踏み固められて滑りやすそうなところ。歩きやすいところを一歩一歩と進むと、ざくざく、しゃりしゃりという音がついてくる。
道の端に積もった雪に触れると、はっとするほど柔らかい。そのまま握りしめると途端に存在を主張して、固い雪の塊になる。そこでやっとその冷たさが柔らかい手の内側に染みだしてくる。
そうしてやっと私は「雪」というものを思い出す。白くて冷たくて儚くて、そう形容される理由を思い知る。自分の身体で直接感じて初めてわかることだ。身体性。
有名な茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩の最後の一節が思い浮かぶ。

『自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ』 

 そのフレーズが心に浮かぶたびに、どうすれば感受性を守れるのだろう、と考える。
 私たちは放っておいても大人になって、様々なことを経験して、嫌なことをやり過ごす術を覚えてゆく。心の表皮は固くなる一方で、子どもの頃の宝物は輝きをなくしたゴミに成り下がる。それは正常な変化だ。その流れに逆らって生きるのは難しい。心を開いて、直面するあらゆるものに傷つけられながら生きるのはあまりに苦しい。それは社会にそぐう生き方ではない。
 自分の心を守りたい。けれど守れば繊細さとは遠くなる。感受性とはどこから生まれるのだろう。心はどこにあるのだろう。

*

先日、脳科学者の池谷裕二氏の講演を聴く機会があった。講演は、「心はどこにあるのか?」という問いかけから始まった。
かつて、心(heart)は心臓(heart)にあると考えられていた。その後には、心は脳であるという説が広がった。今は違う。心は体にあるのだそうだ。
脳は、頭蓋骨の中で世界から隔絶されている。自身では感じられないから、脳は常に身体をモニタリングして感情を決定する。私たちは楽しいから笑うのではなく、口角が上がるから楽しくなる。眠いから寝るのではなく、横になって目を閉じるから眠るのだ。心は体から始まるのだ、脳ではない。現在の科学の常識だという。

*

 心は体から始まる。ならば、手袋を外して直接雪に触れることは、心を動かす第一歩ではないか。雨の温度、川に吹く風の強さ、イヤホンを外すと聞こえる話し声やエンジンを吹かす音。雪を「白くて冷たくて儚いもの」で終わらせず、身体を駆使してそれを感じることが、感受性を耕すことにつながるのではないか。
 融雪の街を歩きながら、そんなことを考えた。

2014年2月2日日曜日

綺麗なものが好きだもの

夕焼け、パンケーキ、カプチーノ、舶来の雑貨、凝ったペンダントの下がった胸元、かわいいお皿の家庭的な料理、お友達からの誕生日プレゼント。ぼかしてコントラストを強くしてインスタグラムで加工された素敵な写真が、巷のSNSを開けば洪水のように溢れかえっている。そういうものを見る度に、いらいらするような釈然としないような気持ちにさせられる。

 *

綺麗なものを見たら写真に撮ってインスタグラムで加工してフェイスブックにアップする、そんなインスタントなインプットとアウトプットで良いのかといつも思う。
人には考える頭があるのだから、既製のツールに頼らずに自分の感性でエンターテイメントにすればよいのに、と。

綺麗なものを綺麗だと言うことは誰にでもできる。感銘を受けた言葉をリツイートするのは指先を少し動かせば済む。だけどそれは工場の流れ作業と同じだ。右から左へと渡しているだけで、そこに個性は生まれない。
 自分らしさを手に入れたくて必死になってする行為が、あべこべにその人の個性を奪う。代替可能なその他大勢の一人にしてしまう。
 自分を認めてもらいたいなら努力するしかない。なのに、みんな楽で簡単な方へと流れてその努力を放棄しているように見えて、それが私を腹立たしい気持ちにさせる。
そんなに簡単に『何か』になれるわけないだろ!

*

綺麗で素敵で、だけどどこかで見たことのある写真たちを見るたびに思う。
そんなもので私の心は動かされない。
君が自分で見つけたもので、君を認めさせてみせろよ、と。

2014年1月10日金曜日

停滞する女たち

正月に祖父母の家に行く。するといつも思い出したように考えることがある。
未だこの世には厳然と男尊女卑が存在しているということと、それを助長させているのは寧ろ女性の方じゃないかということだ。  
 
祖父は完全なる亭主関白で自分では一切何もしない。自分の方が近くても祖母に醤油を取らせたりする。見ていて楽しい光景ではないが、 でも仕方ないとも思う。それが彼らの時代のスタンダードだったのだから。
私が違和感を覚えるのは、そういう場面で父と兄には何も言わず、 私にだけ手伝いなさいと言う母の方である。私からすると母は私と同時代の人間だ。世代は一つ違うけれど時代感覚は同じ、と、思っていたからこそ、彼女の中に前時代的な感覚が根づいているのを目撃するとたいそう驚いてしまう。
 
いやいやしかし待てよ、考えてみれば母親世代どころか完全なる同世代にも、それを当然のように受け入れている人がいる。 
例えば亭主関白な両親を持ついとこや先輩は、男家族や彼氏に家事をさせない。どころか「家事をさせるのは悪い」とさえ言い出す。同じ年代の人間がそんなことを言っているのを見るとぞっとする。
あえて言葉を選ばずに言うと、奴隷でもないのに他人に隷属することに疑問を持たないなんて気持ち悪い。
 
けれどそれもまた、原因に家庭環境があると明確にわかるからまだいい。私がもっとも恐ろしいのは、男尊女卑思考に従順どころか迎合する姿がすぐ近くに溢れかえっていることだ。  
 
一番わかりやすいのは、飲み会で甲斐甲斐しく料理をよそったり酒をついだりする女たちだ。そういう女を指して「女子力が高い」だの「デキ女」だのというけれど、その延長線上にいるのは「お母さん」である。家にいて家事をしてみんなの世話を焼く、性別役割分業に生きるタイプの女性。そういう者を「イイ女」のモデルにして価値を見出してあまつさえデキ女なんて言ってステータスにしているのは女自身である(もちろん男性視点もあって形成された価値観だけど、女性側が喜んで乗っかっているのは事実)。しかもこれは丁度大学生くらいの、時代を切り拓くべき年代で盛んに見られる現象である。
 
ここまで来ると、昨今の若い女性がキャリアウーマン志向ではなく専業主婦を望む傾向にある、というどっかで聞いた話に納得できる気がする。  
女性達は、結構現状に満足しているんだろうな、と思う。女性差別は昔よりずっと少ない。なくなってはいないけれど、かなり生きやすくなった。声高に女性の権利を主張する必要はなくなった。寧ろここから先、完全なる男女平等を求めれば、今度は女性特有のメリットを捨てる事になる。例えば業務量、レディースデイとか女子会割引とかの特典、専業主婦という選択肢、上司からの当たりも強くになるかもしれない。男女平等とはそういうことだ。いい事づくめではない、当然痛みを伴う。  
それをどこかで分かっているから、小狡く賢しい女性達は「古き良き女性」のまま停滞しようとしてるんじゃなかろうか。
 進め!女たち!なんて、私には簡単には言えない。