2014年2月11日火曜日

融雪の街



雪の街を歩くと、いつもと違うものが見える。
20年ぶりの東京の大雪の翌日は一転して小さな春のように温かく、降り積もった雪はあっという間に滴になった。屋根に積もった雪だけがまだ布団のようにふかふかで綺麗だけれど、端に寄せられ、踏まれて茶色くなった道路の雪には人間の生活の匂いがする。ここに住む誰かが雪かきをして、ここで歩く誰かが轍を広げていったのだ。道の端に寄せられた薄汚れた雪の小山が、人々の暮らしの証だ。
街を歩いていたら、駐車場で小さなショベルカーに親子が乗っていた。男の人がショベルカーを操作して雪山を上ると、足の間に座った娘が声を上げて笑った。
交通機関の遅れや、事故や怪我や、雪かきの必要や様々な影響を及ぼした1年に1度振るか降らない
かの雪は、それでも東京に幸せをもたらしていた。

*

 積雪の上を歩くとき、いつもよりも注意深くなる。
 雪の少ないところ、溶けて水たまりになっているところ、踏み固められて滑りやすそうなところ。歩きやすいところを一歩一歩と進むと、ざくざく、しゃりしゃりという音がついてくる。
道の端に積もった雪に触れると、はっとするほど柔らかい。そのまま握りしめると途端に存在を主張して、固い雪の塊になる。そこでやっとその冷たさが柔らかい手の内側に染みだしてくる。
そうしてやっと私は「雪」というものを思い出す。白くて冷たくて儚くて、そう形容される理由を思い知る。自分の身体で直接感じて初めてわかることだ。身体性。
有名な茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩の最後の一節が思い浮かぶ。

『自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ』 

 そのフレーズが心に浮かぶたびに、どうすれば感受性を守れるのだろう、と考える。
 私たちは放っておいても大人になって、様々なことを経験して、嫌なことをやり過ごす術を覚えてゆく。心の表皮は固くなる一方で、子どもの頃の宝物は輝きをなくしたゴミに成り下がる。それは正常な変化だ。その流れに逆らって生きるのは難しい。心を開いて、直面するあらゆるものに傷つけられながら生きるのはあまりに苦しい。それは社会にそぐう生き方ではない。
 自分の心を守りたい。けれど守れば繊細さとは遠くなる。感受性とはどこから生まれるのだろう。心はどこにあるのだろう。

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先日、脳科学者の池谷裕二氏の講演を聴く機会があった。講演は、「心はどこにあるのか?」という問いかけから始まった。
かつて、心(heart)は心臓(heart)にあると考えられていた。その後には、心は脳であるという説が広がった。今は違う。心は体にあるのだそうだ。
脳は、頭蓋骨の中で世界から隔絶されている。自身では感じられないから、脳は常に身体をモニタリングして感情を決定する。私たちは楽しいから笑うのではなく、口角が上がるから楽しくなる。眠いから寝るのではなく、横になって目を閉じるから眠るのだ。心は体から始まるのだ、脳ではない。現在の科学の常識だという。

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 心は体から始まる。ならば、手袋を外して直接雪に触れることは、心を動かす第一歩ではないか。雨の温度、川に吹く風の強さ、イヤホンを外すと聞こえる話し声やエンジンを吹かす音。雪を「白くて冷たくて儚いもの」で終わらせず、身体を駆使してそれを感じることが、感受性を耕すことにつながるのではないか。
 融雪の街を歩きながら、そんなことを考えた。

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