こうして日常的にブログを書くようになってからは特に、私は日々、ネタになることがないかと目を光らせて生活している。ただ、いいフレーズとか書きたいことを見つけても、当然ながらいつもすぐに書き出せるわけではないから、手帳なんかにアイデアの断片を書きつけておく。
だけど、さて書こうとパソコンの前に座ってみると、自分が何を言いたかったのかもうわからなくなっている。もちろん手帳を見ればキーワードは残っているから、そこから思い出していくのだけど、既に「思い出す」という手順が必要になるくらい、その瞬間の感情からは遠ざかっているのだ。
この言葉の劣化速度にはおそるべきものがある。生卵よりも桜の花よりもひどい。光速とは言わないが、ジェット機くらいの速さで腐っていく。砂が風に飛ばされていくように容赦なく「ほんとうのこと」が失われていく中でなんとかそれを形に残そうとする、文章を書くことはいつもいつもその繰り返しだ。
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ある程度の長さの文章を、テーマから大きくぶれることなく書くためには構成が必要になる。書きたい要素を挙げ、話の流れを決め、並べ替えたり削ったりしながら手触りよく見栄えよく仕上げていく。
だけど、そうやってこねくり回しているうちにも言葉は駄目になっていく。人の気持ちなんて実際にはガタガタでぐちゃぐちゃで支離滅裂なはずのものを、わかりやすくきれいなものへと加工するのだから、どんどん不純物が混ざって本来の形から変容していくのは当たり前だ。
ほんとうのことを切り取りたいと思うのに、工夫すればするほど、時間をかければかけるほど偽物になっていく。
最近、田口ランディのエッセイを読んだのだけど、そこに少しだけ似たようなことが書かれていた。
『昨年、私は屋久島の自然と人間について書いたエッセイ集を出した。それを執筆している時にいつも感じたのは、書けば書くほど「屋久島」という自然から遠ざかっていくもどかしさだった。自然について書こうとすると、文章から意味がはぎとられていく。しかしそれではなにかこう心に訴える感動のようなものがない気がして、私はとにかく自然の中に意味を意味を意味を探し続けた。精神的な意味、科学的な意味、神話的な意味。
でも、その作業を続けながら、なにかが違うと思っている自分がいる。』
(『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』田口ランディ)
言葉に無理矢理特別な意味を付与しようとする「あざとさ」が、かえってその本質から離れさせてしまうのだ。
同じレベルで語るのはおこがましいけれど、うまく伝えようとすればするほど言葉が空回りしていく感覚は私にもわかる。
もしかしたら、言葉というツールはそもそも何かをありのままに表現するのには向いていないのかもしれない。
言葉はもともと不完全で欠陥だらけの代物だ。使う人間も不完全だ。表現しきれなくていらいらしたり、伝わらなくてもどかしいことがいくらでもある。
だけど、会話するにも手紙を書くにも言葉が要る。言葉でしかコミュニケーションできない場面に無数に出くわす。私たちは言葉を使うしかなくて、言葉が不完全だからこそ、本当に何かを伝えたいときに必死になる。
「言葉を尽くす」という言葉が好きだ。そこに垣間見える本気と情熱が好きだ。それだけは本物だと思う。だから私は言葉が好きだ。
そうやって、ほんの一瞬でもほんとうのことが光る瞬間があるのなら、私はいくらでも書く。なまもので、あっという間に嘘になる言葉を使って。
そうやって、ほんの一瞬でもほんとうのことが光る瞬間があるのなら、私はいくらでも書く。なまもので、あっという間に嘘になる言葉を使って。
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