川を越えると私の町だ。
家は駅から少し離れていて、大通りを外れた細い道のどんずまりにある。周囲はコンビニもないような住宅地で、夜の8時にもなればすっかり人通りはなくなる。不便だし、夜1人で歩くのに安心安全とは言いがたいが、私はこの道のりが嫌いではない。遠くのスカイツリーの胴体を白い光がぐるぐる回っているのを眺めながら帰り道を歩いていると、まるで世界の果てへ向かっているような気がする。
人と飲んだ帰り、酔い冷ましにはいささか寒すぎる中を歩く。時刻は零時に近く、息を吸い込めば静けさで肺が満たされそうだ。
明日は月曜日だから、きっちり朝起きて仕事にいかなければならない。ふと、生乾きの洗濯物を部屋の中に干したままにしておいたことを思い出す。そういえば昨日も一昨日も風呂場の髪の毛を取るのをさぼっていたから、排水口がえらいことになっているかもしれない。作り置きした野菜炒めも食べきらなければいけないし、朝食用の食パンはもうすぐなくなるはずだ。
色々なことが芋づる式に思い出される。自分1人の生活でもやることは山積みで、生きていくことは煩わしいことだらけだ。
*
私の部屋にはテレビがない。面白いと思える番組は少ないが、あればついつけて見てしまうから。時間を浪費するのが嫌だったから、テレビを持ちたくなかった。音と情報はラジオと携帯から得ればいいと思った。
テレビを持っていない、と言うと結構驚かれる。大丈夫? とか、それでいいの? とか妙な心配をされる。いや、テレビってあるとだらだら見ちゃって、時間がもったいないじゃないですか、と私は答える。そうすると、次に必ずこう訊かれるのだ。「じゃあ、その時間なにしてるの?」この質問をされると、私はいつも困って、言葉に詰まってしまう。
1人暮らしを始めたらもっと本を読もうとか、文章を書こうとか、アニメを見ようとか料理をしようとかマスキングテープであれこれデコろうとか展望はもちろん色々あったけれど、要するに私は自由な時間が欲しかった。なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい時間が。
マグロだかサメだか、泳ぎ続けないと死んでしまう魚のように何かをしていないと耐えられないという人がいる一方で、全然なにもしなくても誰と会わなくても平気な人間というのがいて、私はそっち側の人間だ。じっと海底にうずくまり、ひたすら息をひそめる深海魚のように、何もしなくてもいいし、余計なことをしなくて済むことを望んでいる。だから、テレビを省いて浮かせた時間に何をしているのかと訊かれると、「何もしてません」と矛盾した答えしか出ないことがある。
だけどそれを人にどう説明すればいいのかわからない。ありのままに話せば怠惰で根暗だと思われそうだし、そりゃ怠け者で根暗なのは事実だけど、率先してそういうイメージを作りたいわけでもない。しょうがないから「料理とか掃除とか家事やってるといつの間にか時間経っちゃうんですよ」などと適当に濁す。我ながらつまんねえこと言ってるなと思うし、答えになってないとも思うけど、とりあえずその話題は終わってくれる。
そうして今度は、人と関わる煩わしさにため息が出る。
1人暮らしをするとき、なるべく余分なものは持たないと決めた。余計なものを切り捨てていけば、その分自由になれると思っていた。
けれど蓋を開けてみれば、ただ生活するというだけでこなさなければならないことがいくらでもあった。テレビを排除することができても、かわいい雑貨を買い集めることはやめられなかった。家に帰れば1人でも、誰かとやりとりする中で相手に自分の考えを伝える難しさと面倒くささは変わらなかった。どこまでいってもがんじがらめにされている感覚は消えなかった。
煩わしい。何もかもが煩わしい。だけど、私の思う自由って一体なんなのだろう。自分の周りにあるものを余分なものと決めつけて捨て続けて、それで最後になにが残るんだろう。
私は、何のために川を越えてこの町にやってきたんだっけ。
*
すれ違う人もいない夜中の道を1人、私は私の家に向かって歩く。どことなく寂しくて、どうしてかほっとする道のり。
私は世界の果てに行きたかったのかもしれない、と思う。これ以上進めないし、これ以上進まなくていい場所へ。大通りを外れた細い道のどんずまりにある、世界の果てに似た場所で今日も眠る。
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