冬子は、ちょっと苛つくくらい不器用だ。何かしらの趣味を見つけなければと駆り立てられるように訪れたカルチャーセンターで、待ち時間の間に気分が悪くなって受付さえできない。酒を飲むと気持ちが軽くなることがわかってからは、生活の合間あいまに酒を飲むようになり、魔法瓶に日本酒を入れて持ち歩いたりする。自分に自信のない彼女は人と喋ったりすることも苦手で、勤めていた会社を辞めたのも人間関係に馴染めず、段々と居場所がなくなっていったことが原因だった。
なにげなくカレンダーをめくって、冬子は思う。
『あたりまえだけど、カレンダーは十二月までしかなかった。しめきりがいくつか薄い鉛筆のあとで記されているだけで、ほかには何の予定もなかった。これまでの半年とこれからの半年がそっくり入れかわったとしても、わたしはそれに気がつくこともないんだろうなとそんなことをぼんやりと思った。』
ひたすら同じことを繰り返す日常は閉塞感を生む。常に薄い膜に隙間なく覆われているように、現実からリアリティが失われていく。進んでいるのか止まっているのかわからなくなっていく。そうしていつしか、十年でも二十年でもあっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。
冬子は極端かもしれないけれど、誰しも彼女の中のどこかに自分を見るんじゃないだろうか。例え恋人がいようが大企業に勤めていようが、何も考えずに生きるには人生は長すぎるし、誰も「あなたは一生幸せに過ごせます」なんて保証はしてくれない。
*
冬子の前には、様々な人間が現れては様々な言葉を残してゆく。
大手出版社の校閲部社員である聖は、おしゃれで気が強くて頭の回転が速い女性で、同い年で同郷であるということ以外は冬子とは真逆の人間だ。彼女は、自分の感情がどこかからの引用である気がする、という。
『「感情とか気持ちとか気分とか――そういったもの全部が、どこからが自分のものでどこからが誰のものなのか、わからなくなるときがよくあるの」
「何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ」』
高校時代の友人の典子は結婚して子どももいるけれど、母と父でしかなくなった夫婦関係は冷め切っていて、二人は揃って浮気をしている。
『「自分がやってることなのに、なんか悲しくなるんだよね。漠然とね、こんなはずじゃなかったのになって、そんなこと思うの」
「それでね、そういうのがつづくと、なんだかこれが自分の人生じゃないような感じがし始めるんだよね。だってさ、こんな主婦ばっかりじゃん。それでそういう人たちなんて、基本的にどうでもいいじゃない? どうなろうが、何考えていようが。そう思うとね、わたしもわたしのことがおなじようにどうでもよくなるの」』
水野くんは高校三年生ときのクラスメイトだ。おとなしくて印象が薄い男の子で、ふとしたことで時々電話をするようになった彼は、ある時冬子を自宅に招く。そして、思春期の内気な少年らしい傲慢さで冬子に語る。
『「与えられたものを、……どれだけ捨てられるのかが大事だと思うんだ」
「だから僕はここをでて行くんだよ。自分で選んだものだけで関係を築いて、自分で選んだものだけを生きるのさ。誰も僕を知らない、僕も誰も知らないところへ行って、僕は僕のほんとうの人生をつくるんだ」』
全員まったく違うタイプの人間だけれど、彼らはみんな同じことを言っているように見える。
今の自分に納得できない。受け入れられない。本当の自分はこんなんじゃない。自分の生きるべき場所はどこか別の場所にある気がする。――言葉を立場を変えて彼らは主張する。目の前にある現実に納得できないとき、人はみんな同じようなことを考える。だけど、今いるこの場所を放りだすこともできずに、麻薬のように夢想しては感覚を鈍らせて、ずぶずぶと繰り返しの日常に沈んでゆく。
冬子もまたそういう日々を生きている。けれど、そんな彼女の前に、三束さんという男性が現れる。
高校の物理の教師だという三束さんは、冬子に光の話をしてくれる。
光は何かに反射しないと見ることができないこと。葉っぱが緑色なのは、緑以外の色を吸収してしまっているから。すべての光はものに吸収されて、最後には消えてしまうこと。そのうち、二人は週に一度喫茶店で会うようになり、三束さんは冬子のことを「入江さん」ではなく「冬子さん」と呼ぶようになる。
三束さんは五十代半ばくらいで、髪の毛はかなり後退しており、二人が出会ったのは新宿のカルチャーセンターだ。王子様にはほど遠いけれど、三束さんは光そのものみたいに、閉塞した冬子の世界を照らしてくれる。光に当たって初めて、冬子の周りは鮮やかに色づきだす。
十五年ぶりに再会した典子は、夫婦仲がうまくいっていないことをそれまで誰にも話したことがなかった。
『「なんで入江くんにこんな話できたかっていうとね」と典子は言った。
「それは、入江くんがもうわたしの人生の登場人物じゃないからなんだよ」』
そして典子は夫と娘との待ち合わせの場所へ去ってゆく。雨の中を歩きながら、冬子は「ひとりきりだ」と感じる。それまでの人生だって明るく賑やかとは言い難い人生だけれど、痛切に、一人なのだということを実感する。そうして濡れながら俯いて歩く彼女の前に、三束さんが現れ、傘を差しかけてくれる。まるで奇跡みたいに。できすぎたおとぎ話の王子様のように。
一人部屋にこもり、誰とも連絡を取らず、仕事も減らし、たくさん眠り、冬子は三束さんのことが好きなのだ、と自覚する。自分のダサい着古した服をみんな捨てて、聖がもう着ないからと言ってくれた洒落た高級な服に袖を通してみる。そして、自分が今まで何も選ばず、何も考えず、流されるように生きてきたことに気がつく。
そして、冬子は三束さんに電話をかける。生まれて初めて、彼女は閉ざされた世界から出るための――ここではない場所へ行くための一歩を踏み出す。
*
三束さんの誕生日、冬子は聖のコートのポケットに入っていた名刺の高級レストランで再会する。
わたしの誕生日を一緒にすごしてください、真夜中の道を一緒に歩いてください、と泣きながらお願いする冬子の頭を、三束さんはやさしくなでる。奇跡みたいに二人の気持ちがつながる瞬間。
冬子は三束さんと結ばれて、やっと幸せになるのだ。ハッピーエンドだ。そう思って読み進めていると、がつんと正面からぶん殴られる。
浮かれて家に帰ってきた彼女の前に、闇の中から聖が現れる場面は、下手なホラーなんかよりよっぽど恐ろしい。
体調が悪いと仕事を減らしてもらっていた冬子が、聖の服を着て普段しない化粧をして浮かれている姿を見て、普段の明るく親切な雰囲気をかなぐりすてて聖は糾弾する。
『「楽なのが好きなんじゃないの? 他人にはあんまりかかわらないで、自分だけで完結する方法っていうか」
「知ってるとは思うけど、そういう人たちが傷つかないで安全な場所でひっそりと生きてられるのは、ほかのところで傷つくのを引きうけて動いている誰かがいるからなのよ」
「あなただって皮一枚めくったらそのへんのどこにでも転がってるお粗末な欲望でぐちゃぐちゃなくせに、自分がそれをできないからって、ごまかして都合のいい物語をくっつけてうっとりしてるのを見るとむかつくってだけの話よ」』
冬子は唇を噛みしめ、さっきまで一緒にいた三束さんのことを思い出そうとするけれど、きらきらときらめいていたはずの三束さんへの愛しさは砂のように一瞬でざらざらに色褪せる。新しい自分として踏み出したはずの一歩は、聖の服を着て、慣れない高級レストランなんかに行って、そこに自分らしさなんてなかったんだと気づいたとき、魔法がとけたように三束さんとの思い出は力を失う。すべての光が最後には消えてしまうように、三束さんへの想いも記憶も、いつか忘れ去ってしまうものなのだと思い知って、冬子は泣く。
泣き出した冬子の腕をさすりながら、聖も泣いた。
わたしはいつもこうなってだめにしてしまうの。でもあなたのことを知りたいの。あなたと友達になりたいの。
その夜のあと、三束さんは冬子の前から姿を消す。後から一通の手紙が届いて、そこには彼のついていた嘘のこと、それがずっと苦しかったこと、もう会うつもりのないことが書かれていた。
*
どうしてこうなっちゃたんだ、と本を手にしている私たちは思う。どうして、もうすぐ幸せになれたのに。あと少しでハッピーエンドだったのに。目の前でおもちゃを取り上げられた子どものように呆然としながら、でもふと気づく。私たちは、本当にハッピーエンドを望んでいるのだろうか?
めでたしめでたしで終わるおとぎ話は簡単だ。冬子が三束さんと結ばれてそこで話が終わってくれれば、私たちは安心して物語を読み終えることができるだろう。だけど、それで三束さんが現れてくれない人は救われるだろうか? どうしようもなく傷ついて憔悴した夜に、傘をさしかけてくれる人がいない人は? 幸せになった冬子に取り残されてしまうだけなんじゃないか?
三束さんの誕生日の日、二人は手を握りながらぽつりぽつりと言葉を交わす。
『――光に、さわることってできるんですか
わたしは、三束さんに、さわることはできますか
――ふれるというのは、むずかしい状態です。ふれているということは、これ以上は近づくことができない距離を同時に示していることにもなるから』
はっとするほど、怖い言葉だと思う。私たちはみんな、永遠に一人なのかもしれない。どれだけ一緒にいても、好きあっても、本当の意味で他人に触れることなんてできないのかもしれない。
人生はおとぎ話ではない。一番いい瞬間にめでたしめでたしと終わってはくれない。いいことがあったと思えば悪いことが起こるし、さっきまで宝石のように輝いていた思いが一瞬にして何の価値もなくなってしまうこともある。いまの自分が望んだ自分ではなくても、自分のままで生きていくしかない。ハッピーエンドではないかもしれない終わりまで。
三束さんは消え、冬子はまた同じことの繰り返しの、でも彼女自身の人生を歩きはじめる。そして、いつも世界のどこかにある真夜中に生きる人たちのことを考えたりする。
残酷なこの物語が、それでも途方もなくやさしいのは、ハッピーエンドではないすべての人生に寄り添ってくれるからなのだろう。
三束さんと出会ったばかりのときに冬子が交わしたこの会話が、すべての答えである気がする。
『「三束さんの考えている光というのは、その、わたしの言っている光と、なんというか、おなじものなんでしょうか」
「もちろん、そうだと思いますよ」
「おなじ光について話していると思いますよ」』
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