2015年1月29日木曜日

世界の果て


川を越えると私の町だ。

 家は駅から少し離れていて、大通りを外れた細い道のどんずまりにある。周囲はコンビニもないような住宅地で、8時にもなればすっかり人通りはなくなる不便だし、夜1で歩くのに安心安全とは言いがたいが私はこの道のりが嫌いではない。遠くのスカイツリーの胴体を白い光がぐるぐる回っているのを眺めながら帰り道を歩いていると、まるで世界の果てへ向かっているような気がする。

人と飲んだ帰り、酔い冷ましにはいささか寒すぎる中を歩く。時刻は零時に近く、息を吸い込めば静けさで肺が満たされそうだ
 明日は月曜日だから、きっちり朝起きて仕事にいかなければならない。ふと、生乾きの洗濯物を部屋の中に干したままにしておいたことを思い出す。そういえば昨日も一昨日も風呂場の髪の毛を取るのをさぼっていたから、排水口がえらいことになっているかもしれない。作り置きした野菜炒めも食べきらなければいけないし、朝食用の食パンはもうすぐなくなるはずだ。
色々なことが芋づる式に思い出される。自分1人の生活でもやることは山積みで、生きていくことは煩わしいことだらけだ。


私の部屋にはテレビがない。面白いと思える番組は少ないが、あればついつけて見てしまうから。時間を浪費するのが嫌だったから、テレビを持ちたくなかった。音と情報はラジオと携帯から得ればいいと思った。
 
 
 テレビを持っていない、と言うと結構驚かれる。大丈夫? とか、それでいいの? とか妙な心配をされる。いや、テレビってあるとだらだら見ちゃって、時間がもったいないじゃないですか、と私は答える。そうすると、次に必ずこう訊かれるのだ。「じゃあ、その時間なにしてるの?」この質問をされると、私はいつも困って、言葉に詰まってしまう。
 
1人暮らしを始めたらもっと本を読もうとか、文章を書こうとか、アニメを見ようとか料理をしようとかマスキングテープであれこれデコろうとか展望はもちろん色々あったけれど、要するに私は自由な時間が欲しかった。なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい時間が。
 
マグロだかサメだか、泳ぎ続けないと死んでしまう魚のように何かをしていないと耐えられないという人がいる一方で、全然なにもしなくても誰と会わなくても平気な人間というのがいて、私はそっち側の人間だ。じっと海底にうずくまり、ひたすら息をひそめる深海魚のように、何もしなくてもいいし、余計なことをしなくて済むことを望んでいる。だから、テレビを省いて浮かせた時間に何をしているのかと訊かれると、「何もしてません」と矛盾した答えしか出ないことがある。

 だけどそれを人にどう説明すればいいのかわからない。ありのままに話せば怠惰で根暗だと思われそうだし、そりゃ怠け者で根暗なのは事実だけど、率先してそういうイメージを作りたいわけでもない。しょうがないから「料理とか掃除とか家事やってるといつの間にか時間経っちゃうんですよ」などと適当に濁す。我ながらつまんねえこと言ってるなと思うし、答えになってないとも思うけど、とりあえずその話題は終わってくれる。
 そうして今度は、人と関わる煩わしさにため息が出る。


 1人暮らしをするとき、なるべく余分なものは持たないと決めた。余計なものを切り捨てていけば、その分自由になれると思っていた
 けれど蓋を開けてみれば、ただ生活するというだけでこなさなければならないことがいくらでもあった。テレビを排除することができても、かわいい雑貨を買い集めることはやめられなかった。家に帰れば1人でも、誰かとやりとりする中で相手に自分の考えを伝える難しさと面倒くささは変わらなかった。どこまでいってもがんじがらめにされている感覚は消えなかった。
 煩わしい。何もかもが煩わしい。だけど、私の思う自由って一体なんなのだろう。自分の周りにあるものを余分なものと決めつけて捨て続けて、それで最後になにが残るんだろう。
 私は、何のために川を越えてこの町にやってきたんだっけ。


 すれ違う人もいない夜中の道を1人、私は私の家に向かって歩く。どことなく寂しくて、どうしてかほっとする道のり。
 私は世界の果てに行きたかったのかもしれない、と思う。これ以上進めないし、これ以上進まなくていい場所へ。
 大通りを外れた細い道のどんずまりにある、世界の果てに似た場所で今日も眠る。

すべてのハッピーエンドではない物語―川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

 入江冬子の日常はぱっとしない。フリーの校閲者である彼女は毎日ゲラと向き合い、参考資料を傍らに間違いや齟齬がないかをひたすらチェックするという校閲作業以外は予定もなく、趣味も恋人も友達もない。声をかけてくる相手といえば、冬子に仕事を回してくれる仕事相手の石川聖くらいのものだ。
 子は、ちょっと苛つくくらい不器用だ。何かしらの趣味を見つけなければと駆り立てられるように訪れたカルチャーセンターで、待ち時間の間に気分が悪くなって受付さえできない。酒を飲むと気持ちが軽くなることがわかってからは、生活の合間あいまに酒を飲むようになり、魔法瓶に日本酒を入れて持ち歩いたりする。自分に自信のない彼女は人と喋ったりすることも苦手で、勤めていた会社を辞めたのも人間関係に馴染めず、段々と居場所がなくなっていったことが原因だった。
 なにげなくカレンダーをめくって、冬子は思う。 

『あたりまえだけど、カレンダーは十二月までしかなかった。しめきりがいくつか薄い鉛筆のあとで記されているだけで、ほかには何の予定もなかった。これまでの半年とこれからの半年がそっくり入れかわったとしても、わたしはそれに気がつくこともないんだろうなとそんなことをぼんやりと思った。』
 

 ひたすら同じことを繰り返す日常は閉塞感を生む。常に薄い膜に隙間なく覆われているように、現実からリアリティが失われていく。進んでいるのか止まっているのかわからなくなっていく。そうしていつしか、十年でも二十年でもあっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。
 冬子は極端かもしれないけれど、誰しも彼女の中のどこかに自分を見るんじゃないだろうか。例え恋人がいようが大企業に勤めていようが、何も考えずに生きるには人生は長すぎるし、誰も「あなたは一生幸せに過ごせます」なんて保証はしてくれない。

 
 冬子の前には、様々な人間が現れては様々な言葉を残してゆく。
 大手出版社の校閲部社員である聖は、おしゃれで気が強くて頭の回転が速い女性で、同い年で同郷であるということ以外は冬子とは真逆の人間だ。彼女は、自分の感情がどこかからの引用である気がする、という。

『「感情とか気持ちとか気分とか――そういったもの全部が、どこからが自分のものでどこからが誰のものなのか、わからなくなるときがよくあるの」

「何かにたいして感情が動いたような気がしても、それってほんとうに自分が思っていることなのかどうかが、自分でもよくわからないのよ」』
 

高校時代の友人の典子は結婚して子どももいるけれど、母と父でしかなくなった夫婦関係は冷め切っていて、二人は揃って浮気をしている

『「自分がやってることなのに、なんか悲しくなるんだよね。漠然とね、こんなはずじゃなかったのになって、そんなこと思うの」

「それでね、そういうのがつづくと、なんだかこれが自分の人生じゃないような感じがし始めるんだよね。だってさ、こんな主婦ばっかりじゃん。それでそういう人たちなんて、基本的にどうでもいいじゃない? どうなろうが、何考えていようが。そう思うとね、わたしもわたしのことがおなじようにどうでもよくなるの」』

 
 水野くんは高校三年生ときのクラスメイトだ。おとなしくて印象が薄い男の子で、ふとしたことで時々電話をするようになった彼は、ある時冬子を自宅に招く。そして、思春期の内気な少年らしい傲慢さで冬子に語る

『「与えられたものを、……どれだけ捨てられるのかが大事だと思うんだ」

「だから僕はここをでて行くんだよ。自分で選んだものだけで関係を築いて、自分で選んだものだけを生きるのさ。誰も僕を知らない、僕も誰も知らないところへ行って、僕は僕のほんとうの人生をつくるんだ」』


 全員まったく違うタイプの人間だけれど、彼らはみんな同じことを言っているように見える。
 今の自分に納得できない。受け入れられない。本当の自分はこんなんじゃない。自分の生きるべき場所はどこか別の場所にある気がする。――言葉を立場を変えて彼らは主張する。
 目の前にある現実に納得できないとき、人はみんな同じようなことを考える。だけど、今いるこの場所を放りだすこともできずに、麻薬のように夢想しては感覚を鈍らせて、ずぶずぶと繰り返しの日常に沈んでゆく。

 冬子もまたそういう日々を生きている。けれど、そんな彼女の前に、三束さんという男性が現れる。
 高校の物理の教師だという三束さんは、冬子に光の話をしてくれる。
 光は何かに反射しないと見ることができないこと。葉っぱが緑色なのは、緑以外の色を吸収してしまっているから。すべての光はものに吸収されて、最後には消えてしまうこと。
 そのうち、二人は週に一度喫茶店で会うようになり、三束さんは冬子のことを「入江さん」ではなく「冬子さん」と呼ぶようになる。
 三束さんは五十代半ばくらいで、髪の毛はかなり後退しており、二人が出会ったのは新宿のカルチャーセンターだ。王子様にはほど遠いけれど、三束さんは光そのものみたいに、閉塞した冬子の世界を照らしてくれる。光に当たって初めて、冬子の周りは鮮やかに色づきだす。

 十五年ぶりに再会した典子は、夫婦仲がうまくいっていないことをそれまで誰にも話したことがなかった。 

『「なんで入江くんにこんな話できたかっていうとね」と典子は言った。
「それは、入江くんがもうわたしの人生の登場人物じゃないからなんだよ」』

 そして典子は夫と娘との待ち合わせの場所へ去ってゆく。雨の中を歩きながら、冬子は「ひとりきりだ」と感じる。それまでの人生だって明るく賑やかとは言い難い人生だけれど、痛切に、一人なのだということを実感する。そうして濡れながら俯いて歩く彼女の前に、三束さんが現れ、傘を差しかけてくれる。まるで奇跡みたいに。できすぎたおとぎ話の王子様のように。

 
 一人部屋にこもり、誰とも連絡を取らず、仕事も減らし、たくさん眠り、冬子は三束さんのことが好きなのだ、と自覚する。自分のダサい着古した服をみんな捨てて、聖がもう着ないからと言ってくれた洒落た高級な服に袖を通してみる。そして、自分が今まで何も選ばず、何も考えず、流されるように生きてきたことに気がつく。
 そして、冬子は三束さんに電話をかける。生まれて初めて、彼女は閉ざされた世界から出るための――ここではない場所へ行くための一歩を踏み出す

 

 三束さんの誕生日、冬子は聖のコートのポケットに入っていた名刺の高級レストランで再会する。
 わたしの誕生日を一緒にすごしてください、真夜中の道を一緒に歩いてください、と泣きながらお願いする冬子の頭を、三束さんはやさしくなでる。奇跡みたいに二人の気持ちがつながる瞬間。
冬子は三束さんと結ばれて、やっと幸せになるのだ。ハッピーエンドだ。そう思って読み進めていると、がつんと正面からぶん殴られる。
 浮かれて家に帰ってきた彼女の前に、闇の中から聖が現れる場面は、下手なホラーなんかよりよっぽど恐ろしい。
体調が悪いと仕事を減らしてもらっていた冬子が、聖の服を着て普段しない化粧をして浮かれている姿を見て、普段の明るく親切な雰囲気をかなぐりすてて聖は糾弾する。

『「楽なのが好きなんじゃないの? 他人にはあんまりかかわらないで、自分だけで完結する方法っていうか」

「知ってるとは思うけど、そういう人たちが傷つかないで安全な場所でひっそりと生きてられるのは、ほかのところで傷つくのを引きうけて動いている誰かがいるからなのよ」

「あなただって皮一枚めくったらそのへんのどこにでも転がってるお粗末な欲望でぐちゃぐちゃなくせに、自分がそれをできないからって、ごまかして都合のいい物語をくっつけてうっとりしてるのを見るとむかつくってだけの話よ」』

冬子は唇を噛みしめ、さっきまで一緒にいた三束さんのことを思い出そうとするけれど、きらきらときらめいていたはずの三束さんへの愛しさは砂のように一瞬でざらざらに色褪せる。新しい自分として踏み出したはずの一歩は、聖の服を着て、慣れない高級レストランなんかに行って、そこに自分らしさなんてなかったんだと気づいたとき、魔法がとけたように三束さんとの思い出は力を失う。すべての光が最後には消えてしまうように、三束さんへの想いも記憶も、いつか忘れ去ってしまうものなのだと思い知って、冬子は泣く。
泣き出した冬子の腕をさすりながら、聖も泣いた。

わたしはいつもこうなってだめにしてしまうの。でもあなたのことを知りたいの。あなたと友達になりたいの。

その夜のあと、三束さんは冬子の前から姿を消す。後から一通の手紙が届いて、そこには彼のついていた嘘のこと、それがずっと苦しかったこと、もう会うつもりのないことが書かれていた。



どうしてこうなっちゃたんだ、と本を手にしている私たちは思う。どうして、もうすぐ幸せになれたのに。あと少しでハッピーエンドだったのに。目の前でおもちゃを取り上げられた子どものように呆然としながら、でもふと気づく。私たちは、本当にハッピーエンドを望んでいるのだろうか?
めでたしめでたしで終わるおとぎ話は簡単だ。冬子が三束さんと結ばれてそこで話が終わってくれれば、私たちは安心して物語を読み終えることができるだろう。だけど、それで三束さんが現れてくれない人は救われるだろうか? どうしようもなく傷ついて憔悴した夜に、傘をさしかけてくれる人がいない人は? 幸せになった冬子に取り残されてしまうだけなんじゃないか?

三束さんの誕生日の日、二人は手を握りながらぽつりぽつりと言葉を交わす。

『――光に、さわることってできるんですか
 わたしは、三束さんに、さわることはできますか

 ――ふれるというのは、むずかしい状態です。ふれているということは、これ以上は近づくことができない距離を同時に示していることにもなるから』

 はっとするほど、怖い言葉だと思う。私たちはみんな、永遠に一人なのかもしれない。どれだけ一緒にいても、好きあっても、本当の意味で他人に触れることなんてできないのかもしれない
 人生はおとぎ話ではない。一番いい瞬間にめでたしめでたしと終わってはくれない。いいことがあったと思えば悪いことが起こるし、さっきまで宝石のように輝いていた思いが一瞬にして何の価値もなくなってしまうこともある。いまの自分が望んだ自分ではなくても、自分のままで生きていくしかない。ハッピーエンドではないかもしれない終わりまで。
 三束さんは消え、冬子はまた同じことの繰り返しの、でも彼女自身の人生を歩きはじめる。そして、いつも世界のどこかにある真夜中に生きる人たちのことを考えたりする。

残酷なこの物語が、それでも途方もなくやさしいのは、ハッピーエンドではないすべての人生に寄り添ってくれるからなのだろう。
三束さんと出会ったばかりのときに冬子が交わしたこの会話が、すべての答えである気がする。
 
『「三束さんの考えている光というのは、その、わたしの言っている光と、なんというか、おなじものなんでしょうか」

「もちろん、そうだと思いますよ」
「おなじ光について話していると思いますよ」』
 

2015年1月11日日曜日

永遠に解けなくていいー森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』

※盛大にネタバレを含みます。
 

『ぼくはたいへん頭が良く、しかも努力をおこたらずに勉強するのである。
だから、将来はきっとえらい人間になるだろう。』

  冒頭のこの文と違う事なく、ぼくことアオヤマ少年(小学4年生)は毎日たくさんの本を読み、いくつもの研究をかけ持ちし、すべてをノートに記録している。彼は5歳の時から怒らないと決めていて、怒りそうになるとおっぱいのことを考える。それから時々、歯科医院のお姉さんと「海辺のカフェ」でチェスをする。「お姉さんは興味深い」とのたまい、お姉さん研究をすすめる。
  そんな「ぼく」の住む町に、ある日突如としてペンギンが出現する。「ぼく」は、「ペンギン・ハイウェイ研究」と名前をつけて、ペンギン達について調べ始めるのだった。


  歯科医院のお姉さんはウィットに富んだ豪胆な女性で、「ぼく」を子ども扱いしたり大人扱いしたりえこひいきしたりする。お姉さんは海辺の町の出身で、いつか一緒に行く約束をしている。
「ぼく」はしばしばお姉さんのおっぱいを眺めては、「なにを見ている」と怒られる。そして、なぜ母のおっぱいを見たりはしないのに、お姉さんのおっぱいはいくら見ていても飽きないのだろうと考えたりする。
  お姉さんの家へ招待されて、一緒にお昼を食べたりもする。お姉さんの部屋で、眠ってしまったお姉さんの寝顔を見て、どうしてこんなに完璧なんだろうと思う。

『大人の女性は、大人の男性をカンタンに部屋に入れたりはしないそうである。その男性の前で眠ってしまったりもしない。そういうことは恋人同士になってからするのだ。お姉さんはぼくを部屋に入れて、ぼくの前で眠ってしまった。お姉さんがそうするのは、ぼくがたんに子どもであるからだろうか。』

「ぼく」は認めようとしないけれど、どうしようもなくお姉さんに恋をしているのだ。


  私はアオヤマ君ほど賢くないし、勤勉でもないけれど、彼の日常には、はっとするほど自分の経験と重なる瞬間がある。
  例えばどうしようもなく嫌な奴がいること。思いがけないきっかけで友達ができることがあること。真夜中に目が覚めてしまって、世界に1人きりのような気分になること。宇宙の果てや死について考えだして恐ろしくなること。母親には言わないことを、日曜日のふとした瞬間に父親に話したりすること。寂しくてしょうがない日が時々やってくるけれど、それを自分ではコントロールできないこと。年上の人に憧れたりすること。
  小さな、どうってことないエピソードがいくつも積み重なって、私は自分と似ても似つかないアオヤマ君に感情移入してゆく。そしてアオヤマ君と一緒に、お姉さんのことがどんどん好きになってゆく。


  ある時、お姉さんが放り投げたコーラの缶がペンギンへと変化するのを「ぼく」は目撃する。お姉さんはその理由が自分でもわからないと言う。
  実験をするうちに、お姉さんはペンギン以外のものも作り出せることがわかってくる。花や、シロナガスクジラや、ジャバウォックだ。そして、それと同時期に森の奥の草原で不思議な水の球体「海」の存在を発見する。奇妙な現象が続くなか、渦中のお姉さんは言葉を変えて繰り返し「ぼく」に言う。
「謎を解いて、少年」
  わからないと言いながら、既に答えに辿り着いているみたいに。自分自身で答えを出すことを恐れてるみたいに。
  そして、「海」が急激に拡大し始めたとき、「ぼく」の中ですべての謎の答えが繋がってゆく。
「海」を調査していた調査隊の5人が行方不明になり、町に異変が広がってゆくなか、「ぼく」は1つの仮説を胸にお姉さんのもとへと向かうのだったー。


『お姉さんは人間ではない』

  アオヤマ少年はお姉さんに告げる。
「海」が世界の綻びであること。ペンギンとそれを作り出すお姉さんは綻びを直す存在であること。
「ぼく」はアオヤマ仮説を淡々と述べる。その仮説では、世界が完全に修復されたとき、ペンギンとともにお姉さんも消えてしまうと知りながら。
  既にアオヤマ君になりかかっている私は、苦しい気持ちでページをめくる。

『それだけえらくなったら、私の謎も解けるだろうな。そうしたら私を見つけて、会いにおいでよ』

  そうして、お姉さんは消えてしまう。
  悲しい。非常に悲しいけれど、この作品はこの後の数ページがとてつもなく素敵だ。

『世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイである。その道をたどっていけば、もう一度お姉さんに会うことができるとぼくは信じるものだ。これは仮説ではない。個人的な信念である。』

「ぼく」は泣かないと決めている。泣かずに毎日勉強し、筋肉をつけ、大人になってゆく。そしていつか謎を解いて、お姉さんに再び出会うだろう。
  この本を閉じるとき、私はもう既に、アオヤマ君と同じようにとてつもなくお姉さんに会いたくなっている。
  それと同時に、もう大人で女で、お姉さんの立場に近い私は勝手に、アオヤマ君が大人になってしまうことが怖い気もする。いつまでも変わらず、追いかけ続ける少年のままでいてほしいような。
  だからほんの少しだけ、謎が永遠に解けなくてもいい、なんて思う。

2014年12月31日水曜日

2014年読書総括

今年読んだ本をまとめ、独断と偏見により感想を述べ、2014年の読書活動を総括するものである。

<2月>
1日『マアジナル』田口ランディ
9日『キッチン』吉本ばなな
18日『月魚』三浦しをん
23日『塩の街』有川浩

<3月>
28日『イナイ×イナイ』森博嗣
31日『舟を編む』三浦しをん
日付不明『太陽の塔』森見登美彦
    『阪急電車』有川浩
<4月>
日付不明『重力ピエロ』伊坂幸太郎

<5月>
なし

<6月>
12日『サマーサイダー』壁井ユカコ

<7月>
15日『白いへび眠る島』三浦しをん
16日『グミ・チョコレート・パイン グミ編』大槻ケンヂ
22日『憑物語』西尾維新
25日『消失グラデーション』長沢樹

<8月>
27日『桐島、部活やめるってよ』朝井リョウ

<9月>
2日『かわいそうだね?』綿矢りさ
17日『花のレクイエム』辻邦生

<10月>
1日『晴天の迷いクジラ』窪美澄
6日『横道世之介』吉田修一
14日『パークライフ』吉田修一
29日『四季 春』森博嗣
30日『世界クッキー』川上未映子

<11月>
4日『深い河 ディープリバー』遠藤周作

<12月>
16日『半島を出よ 上』村上龍
23日『さよなら渓谷』吉田修一

以上25冊

上記についていくつかピックアップし、テーマ毎に分けて感想を述べる。

[最近の作家]
今年は今まで読まずにいた作家の本を読むよう心がけ、若手作家の本をいくつか読んだ。感想としては一言「最近の作家ってこんなもんでいいんだ」。
物語としてはまとまっているし、当然1つの作品として仕上がっているけれど、点数をつけるなら10点満点で6〜7点、欠けた3点には迫力とか独創性とか熱意とかが含まれていて、彼らの作品を読んでも、それなりに上手だなとは思ってもエネルギーは感じられなかった。
私はよく文章を布に例えるのだけど、いい文章というのはなめらかで手触りが一定している。メッセージ性が高ければそこに緻密な模様が浮かび上がる。という感じなのだけど、以下に挙げる作品は読んでいて引っ掛かりが多く、一応布ではあるけれど売り物のレベルではないと感じた。

・有川浩『塩の街』『阪急電車』
ラノベ上がりだなーって感じ。エンタメ性は持っているし映像との相性がいいのは分かるが、文章はあんまり上手くない。心理描写も表面的で漫画のキャラみたい、薄っぺらくて全然共感できない。『塩の街』での主人公の男が塩の柱に突っ込むシーンをまるまる書かなかったことが私には逃げにしか見えない。

・朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』
年が近くてすばる新人賞取ってて嫉妬に焼き殺されそうで手に取れなかったけど勇気を出して読んだ。感想、微妙。何がこんなに評価されてるのかわからなかったし桐島が部活辞めたことあんまり関係なくない?  女子の心理描写とか、男が頑張って想像したんだろうなという印象。時折いいフレーズはあるけれど、前後の文から浮いてしまって下手くそなパッチワークみたい。

・長沢樹『消失グラデーション』
参考:白河三兎『プールの底に眠る』
白河三兎を読んだのは昨年だけど同じ感想を抱いたのでまとめる。
村上春樹リスペクト、ただし全く及ばない。村上春樹のすごいところはあの文章で長編を書ききれる根気と集中力にあると思うのだが、簡単に真似できるものじゃない。中途半端に手を出して完全に火傷している。2つともミステリーなのだが、文章の拙さが目についてストーリーが入ってこない。

[複数読んだ作家]
私の読書は非常に偏っており、ついつい同じ作家ばかり読んでしまうのだけど、例によって今年も偏食気味である。

・三浦しをん『月魚』『舟を編む』『白いへび眠る島』
上期は三浦しをん。比較的最近の作家の中で許せる人。8〜9点はいつも出せる。文章に安定感があるので安心して読める。『舟を編む』文学としても深みは今ひとつかなと思ったが、登場人物が生き生きしていてよかった。彼女もラノベ上がり、BLもやっていたとのことでちょいちょい滲み出ているというか、もはや『月魚』は趣味全開という感じだったけど普通に萌えたので許す。

・吉田修一『横道世之介』『パークライフ』『さよなら渓谷』
下期は吉田修一。初めて読んだのは2006年に朝日新聞で『悪人』が連載されていた時のこと。『あの人は悪人やったんですよね? その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねえ? そうなんですよね?』というラスト数文の畳み掛けるような言葉の連なりが心に残っている。
で、そこから1作も読まずに今年である。『横道世之介』はヘヴィめだった『悪人』とは雰囲気が変わり、麻のようにさらりと爽やかな作品だった。「一風変わった主人公」を描くことはあらゆる作品で挑戦されているが、奇をてらい過ぎていたりキャラを生かせていなかったり結構難しいと思うのだが、世之介という青年は実に自然体に描かれていて、読み終わりには好きになっていること必至。
『パークライフ』『さよなら渓谷』と続けて読んだが、作品ごとにがらりとカラーが変わる。非常に器用で多才な作家。

・森博嗣『イナイ×イナイ』『四季 春』
森博嗣Fシリーズ、ずっと読もうと思っていて去年ようやく手に取った。噂に違わず面白かったが、西之園萌絵がどうにも嫌いだったので寄り道がてら違うシリーズに手を出してみた。森博嗣はどっかで『作家なんて世界で1番簡単になれる』とかほざいていたが、その割に設定がいちいち厨二っぽかったりしてなんか微笑ましい。ミステリーとして完成されていてエンタメ作品として◎。

[MVP]
今年読んだ作品の中から個人的MVPを決める。2作選出。
・田口ランディ『マアジナル』
田口ランディ、めっちゃ面白いのに周りで読んでる人を見たことがないので普及したい。
『オカルト』『コンセント』読了済。彼女の小説はオカルト現象を扱い性描写も露骨なので取っつきにくいけれど、描き出されているのは生きること、人との関わりなど身近なテーマだ。ツイッターでフォローしているけれど、本人もとても丁寧に生活している人物。地に足をつけているからこそ、UFOだのイタコだの出てきても単なるSFではなく私自身の物語としてメッセージを伝えることができるのだと思う。『マアジナル』は他2作よりエグさが少ないので入り口として読みやすいと思う。

・綿矢りさ『かわいそうだね?』
やはり、綿矢りさは、天才です。
理性的な主人公があれこれと自分に言い聞かせて無理矢理納得させる長い長い前半の溜め、からの最後の突き抜けるような感情の爆発の表現を本当にお見事。多重人格なんかじゃなくとも人は様々な面を持っていて、それを社会に適合できるように飼い慣らしている。だけど荒ぶる感情は死んだわけじゃなくて、抑えれば抑えるほどに増大して表出の瞬間を虎視眈々と狙っている。そういう、たぶん誰しも持っているエネルギーの塊みたいなものを豪快に爆発させてくれた爽快な作品。全然関係ないけどご結婚おめでとうございます。もう30歳かー。

以上。来年は今年より多くの本を読むことが目標です。

2014年12月22日月曜日

冬の巣立ち2

    天気予報の通り、朝から空は不穏で憂鬱な灰色だった。午前中から時折、思い出したようにぽたりぽたりと雫が落ちた。車の後部座席で私は、まばらな雨粒が窓ガラスを汚すのを見ていた。
    引越し業者は使わなかった。10箱の段ボールと姿見と古いラジカセと私と両親を乗せて、車は東京を横断する。首都高を走る途中、脇を通り過ぎた渋谷のヒカリエを見て、みんなで不格好だと言い合った。
    乗用車の前と後ろの席の間には意外と距離がある。1度後ろから声をかけたら、聞こえなかったようで2人は別の話をし続けた。私はむっとしながら、同時に2人で話しているのを見て安堵する。先日読んだ少年アヤちゃんのブログを思い出していた。もうすぐ、あの家からは子どもがいなくなる。


    自宅から新居のマンションまではたったの1時間で、あっけないほどだった。荷物を部屋に運び入れた時には昼を回っていたので、私たちはファミレスへ行った。
「折角だからデザートまで食べちゃおう」と言って、母と二人で妙にはしゃぎながらパフェやパンケーキの載ったページを研究したけれど、ハンバーグだけでお腹がいっぱいになってしまって、結局デザートは頼まなかった。
    会計は父がした。私は「ありがとう」もごちそうさま」も言わなかった。子どもの頃、家族で外食に行ったときそんなことを言ったことはないし、言おうと思ったこともない。この人たちは、私に少しでも長く子どもでいてほしいのだろうなと思ったら、何も言わないほうがいい気がした。
    両親だけでなく誰に対しても、私はこうやって口を噤むことがある。言うべきこととそうでないこと。言うべき人とそうでない人。その区分を見極めようとして、私の反応はいつも鈍る。私はたぶん考えすぎだし、感傷的すぎる。


    段ボールに入っているのは服と本と漫画とCD、後は日用品が少しあるだけだった。家具家電の類はほとんどなかったが、なによりもまずカーテンと照明が必要だった。私たちは最寄りのニトリでカーテンと照明を買い、手分けして取り付けをした。買ってきた踏み台は高さが足りず、カーテンフックをかけるのもひと苦労だった。
    最低限、部屋が人の住める空間になり、3つの電球のうち1つが不良品であることを発見した頃には、外はすっかり暗くなっていた。家には犬がいて、散歩と餌やりをしなければならないから、両親はもう帰らねばならなかった。

    車に乗る2人を見送った後、私は1人で駅へ向かい、周辺をぐるぐる歩き回ってスーパーやドラッグストアの場所を確認した。
    雨は1番激しくなっていて、大粒の雫が足元をうねって流れていく中を、私は2リットルのペットボトルとシャンプーのボトルの入ったビニール袋を傘と一緒に抱えながら歩いた。
    なんだか泣きたいような気がしたし、泣いてもいいような気がしたけれど、やっぱり癪だったので泣かないことにした。
    誰もいない殺風景な部屋に戻って私が最初にしたことは、銀色の古いラジカセでラジオをつけることだった。

2014年12月15日月曜日

冬の巣立ち

引っ越し用の段ボールをもらいに近所のスーパーマーケットへ行った。
投票の帰り、揚々と自転車をスーパーまで走らせ、店員のおっちゃんに「引っ越しに使うんですよー」などと言いながら、段ボールを頂く許可をもらう。店の裏手へまわり、大きさごとに分けられた段ボールの山から適当なものを5つほど見繕う。そこまで来て、ようやくこの段ボールを運搬する方法について何も考えていなかったことに気づく。
段ボールというのは、箱型にすればものを運べ、潰せば平べったくなり省スペースという優れものだが、段ボールそのものを大量に運ぶとなると恐ろしく厄介な代物だ。平面にするとかなり大きいし、持つところがない上につるつると滑りやすいし、その上結構重い。実際に5枚重ねてみて、自転車のかごに乗せて押さえておけばいいのでは、という考えの浅はかさに気づく。
スーパーを訪れる客や駐車場を整備する警備員の視線に晒されながら思案した結果、大きめの1つを箱に成形し、その中に残りを無理矢理折り曲げて押し込んだ。値段だけで決めた買い換えたばかりの自転車に荷台がついていたことに初めて感謝しながら、重い紙の箱をそこへ乗せた。


私は背が低い。痩せていて、見るからに力も、体力もない。おまけに怠惰で甘ったれなので、見かねた人が手を貸してくれることがある。あぶなっかしい上に要領悪く見えるのだろう。そうやって助けてもらえることはとても幸運だし、ありがたいことなのだけど、反面、別に1人でもできるのに、と思うことがある。
背の低い人間は、あの手この手で高い所にあるものを取る術を知っている。確かに背の高い人に頼んだ方が早いかもしれないけれど、でも、取れるのだ。仮に取れなかったとしても、別のもので代替して乗り切ることだってできる。だから放っておいてほしいと思う。まるっきり背伸びする子どもの理屈だとわかっているけれど、いつまでも子どもではいられないし、いつも誰かが助けてくれる訳じゃない。むしろ助けてもらえる見込みなんて減っていく一方なのだから、背伸びでもなんでもして、自力で乗り越える術を身につけるしかない。どんなにあぶなっかしく、要領が悪かったとしても。

大人になるということがどういうことなのか、どうすればなれるのか今でもよくわからない。だけど、例えばそれが自分のことを自分でできるということだとしたら、私はまだ大人の入り口にも立てていない。いろんなことができなくて、できないままで許される場所にいる。親に庇護されて今でもただの子どもだ。そのことに、静かに焦燥感が募っていく。早く大人になりたい。思春期の子どものように思う。早く大人になって、1人で生きられるようになりたい。


家に戻る途中、一度バランスを崩して段ボールを全部地面にぶちまけた。自転車に乗ったおばあさんが迷惑そうに通り過ぎる。車が1台、器用に段ボールを避けて走っていく。コンクリートに広がった段ボールを拾い集めながら、私は彼らが「大丈夫?」「手伝おうか?」と言わなかったことにほっとしていた。そりゃ、段ボールを運ぶ怪しい女に声なんかかけるはずないことはわかっているけれど、彼らが助けてくれなかったおかげで、私は自分の失敗の始末を自分でつけた。当たり前だ。当たり前の世界で、これから生きていく。
私はもう一度段ボールを荷台に乗せて歩き出した。

来週、16年間暮らした家を出る。

2014年12月9日火曜日

灯台の座標

大人になったら、化粧なんて完璧にできるんだと思っていた。
アイラインもマスカラもばっちりで、毎日鮮やかな口紅を引いて、髪なんかも巻いちゃって、ハイヒールで颯爽と歩くんだと思っていた。
社会人になった今、私は毎朝家を出る30分前に起きる。化粧なんてチークまで入れていれば上出来といったレベルで、当然髪なんて巻けるはずもなく、子どもの頃思い描いた大人のお姉さんとは程遠い格好で電車に乗っている。
思い返してみれば、大人になんてなるまでもなく髪の毛を巻いている子は毎日きちんと巻いていたし、絶対にすっぴんを晒さない子だっていた。高校の修学旅行の部屋で、みんなより1時間も早く起きて、薄暗い部屋で黙々と化粧をしていたクラスメイトがいたのを覚えている。
幼い頃から、身だしなみを整えることよりも11秒でも長く寝ていたかった。あの時から少しも変わらず怠惰な私が、彼女のような「綺麗なお姉さん」になれるはずがない。


大人になることを「階段をのぼる」などと言うけれど、その表現はどうもしっくりこない。順調にステップアップし続けるなら人はどんどん完璧に近づくはずだし、悩みは減る一方のはずだ。それなのに次から次へと悩みの種は発生するし、欲望にも妬みにも底がない。全然上がってない。それよりも、座標を移動する、と言った方が的確だ。人には座標があって、別の座標に移動するためにはエネルギーが要る。例えば今の私は朝起きられなくて、適当な化粧をする座標に立っている。身だしなみのために早起きできる私になるためにはエネルギーが必要だ。そしてエネルギーとは、努力とか意志だったり、する。


就職活動が始まった時、私は自分が何を仕事にしたいのか、どういう大人になりたいのか、具体的なものがまったくなかった。とりあえず、おしゃれだから広告や出版系を受けてみたり、自慢できそうだからとりあえず名前を知っている大手を受けてみたりしては落ちまくった。狂った方位磁針のようにくるくると方向が定まらなくて、わかりやすいものに飛びついては跳ねつけられた。きちんと化粧をし、髪を巻き、ヒールで颯爽と歩く大人の女性にイメージだけで憧れていたのと同じだ。自分が本当にそうなりたいのかは考えなかった。何が悪いのか、どうすればいいのかわからないまま、プライドだけは一人前で、私は現実逃避するように貪るように眠った。努力はしなかった。
幸運なことに、そんなに悪くない会社に拾ってもらって、それはやりたいこととは程遠かったけれど、やっぱり私は嫌なことは考えたくなくて、そこで就職活動を止めた。仕事のことは働きだしてから考えればいいやと思った。

就活が終わってから、私は友達と文学フリマというイベントに参加することになった。それぞれが文学だと思う物を作品にして売る、ものすごく小規模なコミケみたいなものだ。11つ作品を書いて、それをまとめて本を出すことになった。
私はパソコンを持ち歩き、図書館やカフェや家で、卒論と交互に小説を書いた。書きながら思い出した。幼稚園の時から小説家になりたかったこと。聞かれなかったから答えなかったけど、私の夢はそこから1度も変わっていないこと。本当は思い出したんじゃない。忘れてなんかいない。余りにも遠くて、考えるのがつらいので、私は眠って、それを考えないようにしていただけなのだ。だけどパソコンのフォルダを開いてみれば、途切れながらもいつも文章を書いていた痕跡があった。私の座標は、あの頃から全然動いていなかった。
それがわかったとき、解放されたような気がした。自分が変わっていないことを知るために、それまでの人生を費やしたようだと思った。でもそれでもいいと思った。私はやっと、自分がどこに立っているのかを知ったのだ。夢は相変わらず遠い。以前よりもっと遠いかもしれない。でも、陸の灯台の灯りのように、夜中でも、嵐に荒れた中でも私はその光を見ることができる。どれだけ遠くても、どちらへ向かえばいいかはっきりわかっている。私が迷うことはもうない。



あの修学旅行の日、人がいると眠りの浅くなる私は、ほんのりとカーテン越しに朝日の入る黄土色の室内で、布団に入ったまま化粧をする彼女の後ろ姿をずっと眺めていた。化粧なんてろくにしたことのなかった私には、どうして化粧にそんなに時間がかかるのかわからなかった。今、落ち着いて化粧するときでさえ、彼女ほど時間がかかることはない。それでも私はずっと、彼女の背中から目を離せない。誰に自慢することもなく、認めてもらおうとするでもなく、ただ黙々と自分の目指す座標に向かう姿は美しかったと思う。