2015年6月9日火曜日

※再掲《告知》ネットプリント開始します。

本日より、ネットプリントでのエッセイ配信を開始しました。

『生存の心得』
「生活する」をコンセプトに、1人暮らしをしながら東京で1人生き抜く術を模索するガチふわエッセイ。
第1回テーマは「食べる」です。

※以前のデータが荒いという意見を頂いたので、データを差し替えました。
これから出力される場合は新しい予約番号:32274016で出力して頂けると幸いです。
・出力方法
①セブンイレブンにて予約番号を入力
②カラーは60円、モノクロは20円を投入しプリント
期限は1週間、6/19までです。
よろしくお願い致します。

2015年5月30日土曜日

《告知》ONLY FREE PAPERへ納品しました。

告知です。
文学フリマにて頒布したフリーペーパー『好きにさせろよvol.1』を、ONLY FREE PAPERという、フリーペーパー専門のスペースに置いていただきました。
場所は渋谷パルコパート1の4階です。
興味のある方、お近くに寄る方は是非お手にとってみて下さい。
どれくらいの早さでなくなるものなのかわからないのですが、追加納品はしない予定なのでなくなってしまったらごめんなさい。
どうぞよろしく。

2015年5月21日木曜日

何者

 5月16、17日、デザインフェスタに行ってきた。出展者1万2千人を誇る、世界規模のアートイベントだ。
存在は知っていたけれど、初めて行ってみて驚いたのはそのクオリティの高さだった。正直、こんだけの数のブースが出展しているのなら道楽で参加するど素人が散見されるのだろうとたかを括っていたのだが、全てのスペースを一通り回ってみてレベルが低いと感じられるものはほぼなかったと言っていい。
歌、ダンス、ライブペイントなどのパフォーマンス系もあるけれどだいたいのブースは物販なのだが、そのどれもが到底手作りとは思えなかった。「モノ」を作らない私のような人間には、アマチュアでどうやってあんな製品が作れるのかさっぱりわからない。店頭に並んでいたら業者の作っている市販品にしか見えないだろう。そういうレベルのものでビッグサイトはあふれかえっていた。
最初に質の高さに驚いて、でも次に私が感じたのはむなしさというか、やるせなさみたいな感覚だった。これだけのものが作れるのに、クオリティとしては充分なのに、「その程度」ならビッグサイトを埋め尽くすほどの人間に同じことができるのだ。そして、傍目にはほとんど同じようなものを売っているのに、あるブースでは行列ができ、別のブースは閑古鳥が鳴いている。その境界がどこにあるのか、あるいはそんな境界が本当に存在するのか、少なくとも作品だけを見ている限りはわからなかった。

プロアマの境がなくなってきていると言われる。様々なツールや業者が用意されている今、根気と情熱といくらかの金があれば、誰でもある程度のモノが作れるようになった。逆に言えば、そのレベルの人間が既に飽和している。
ブースの間を歩きながら、原宿を歩くときもいつもこんな気分になる、と思った。原宿という街には奇抜なファッションや髪色の人達がうじゃうじゃしている。だけど「人と違う自分でありたい」という同一のベクトルを持った人間が集まりすぎて、結果的にみんな埋没しているように見える。
何かになりたい人が多すぎる、と思った。
人は誰しも生まれてこのかた自分が主役、自分の視界だけで世界を展開してきた。自分は誰よりかけがえのない、重要な主人公だ。道を歩いていたら前から来た人が自分の顔をまじまじと見つめ、「君には才能がある。君は特別な存在だ」と言ってくれる妄想を、誰もが一度はしたことがあるんじゃないだろうか。
なんだかんだいって、みんな自分に秘められた可能性を信じている。なのに、一歩社会に踏み出すと誰も特別扱いなんてしてくれない。交換可能なその他大勢としての居場所しか用意されていない。そのギャップに戸惑って、受け入れられなかった人間が、這い上がるためにそのうち何かを作り始めるんだと思う。
デザインフェスタにはそういう人達が満ち溢れいた。それは出展者だけじゃなく来場者にも同じことが言える気がした。誰もが自分にしかわからない価値を見つけたくて、そして自分にしかない価値を見つけて欲しくてあの場に集まっているように見えた。そこにはあらゆる形での自意識が窒息せんばかりに氾濫していて、それはとても尊いエネルギーなのだろうけど、私はそれに酔って、息苦しくなってしまった。ここまで来たってまだ1万2千分の1の有象無象のくせに、と心の中で毒づいた。

結局、同族嫌悪なのだろう。私だって自分に特別な何かがあるという思いを捨てきれなくて、膨れ上がった自意識を持て余した人間だ。だけどその程度の存在はいくらでもいて、そこから頭一つ突き抜ける難しさを――何者かになるということの途方のなさを見せつけられて嫌気がさしただけだ。

私は私だ。そんなことは言われなくたってわかっている。でもそれだけじゃ満たされないのだ。どうしようもなく飢えていて、強欲だ。「自分は自分」という答えを拒絶するなら、何者でもない自分からスタートするしかない。無数の名前のない存在のひしめく中に飛び込んでいくしかない。たとえそれが、欠けた杯に水を注ぐようなことだとしても。

2015年5月10日日曜日

安全な部屋


焦っている。

やりたいこと、なりたいものと、そのためにしなければならないことが無限にある。しかしそこに費やす時間は余りに少ない。会社員だから週5日は労働で拘束される。通勤時間、昼休み、アイデアは次々と思い浮かぶけれど、腰を据えて取り組む余裕はない。だけど家に帰ってきて夕飯を食べると、まだ大した時間でもないのに横になってそのまま寝てしまう。予定のない休日には際限なく布団にくるまってうとうとしながら携帯をいじっている。仕事よりは好きな文章を書く方が当然楽しいけれど、それよりもごろごろ寝ている方がずっと楽だからだ。テスト勉強をするはずが部屋の掃除を始めてしまう学生と同じだ。怠惰で、集中力がない。尻叩きになるかもと壁に貼った「1日執筆1時間以上! やる前に寝ない!」と書いた紙がむなしい。

どうしてもっと頑張れないのだろう。本気なら寝る間も惜しんで文章を書けるはずだ。会社だって辞めればいいし、もっとボロい家に住んで新しい服なんか買わないで外食もしないでひたすら書いていくことだってできるのに、なぜそれができないんだろう。自分は本気じゃないのかもしれない、と思うことが苦しい。人生ってやつは、やりたいことをするには短すぎるけれど、それを諦めて生きるには長すぎる。


ラーメン屋で隣の席に、4、50がらみの夫婦が座った。

「○○さんちは子どもが2人とも就職して家出たんだって」
「へえ、人生あがりじゃないか」
 あがりってなによと妻は不満そうに訊いていたけれど、私には夫の言った意味がよくわかった。
 結婚して子どもを生み、育て、独り立ちさせたのだ。少なくともこの国の価値観において負うべき責務は一通り終えているように思える。もちろんその先も生活は続くにせよ、義務は既に果たしている。人生あがり、だ。
 今私の目指しているものは、そういう責務からは真逆にある。思いっきり逆走しながら、この道の「あがり」はどこにあるんだろうと思う。仮に結婚もしない、子どもも生まないとして、どこまで走れば、何を残せば私の人生は「これであがり」と認めてもらえるんだろう。

 この期に及んで「本気を出さない」ことで保険をかける自分が嫌だ。普通のベクトルに戻せるような打算を捨てられない自分が嫌だ。
 私だって負け戦がしたいわけじゃない。自分の書いたものが面白いって信じているから、夢が叶う可能性があると思っているから、そう思える限り突っ走りたい。だけどもしそんな可能性ないんならこの人生なんて明日にでも終わってほしい。毎日毎日焦りながら、自分の怠惰を見せつけられながら生きていくのは結構しんどい。命は短すぎるし、長すぎる。
 ゴールデンウィークにこじらせた風邪がなかなか治らない。薬を飲んで、月曜日からまた会社へ行く。
 私はまだこの安全な部屋から出られない。


2015年4月13日月曜日

マーブルマイワールド

 コンタクトを切らしてしまった。
 引っ越したので駅前の眼科に初めて行ったら、トライアルで何日か使ってからでないと売ってくれないという。
 平日に医者に行く時間なんて取れないから仕方なく眼鏡でやり過ごして土曜を待つ。
 ちょっとした手術があって父が入院することになった。自分は別の用事があるので、土曜日父に付き添ってほしいと母が言う。その翌日の日曜は出勤日だったから、土曜のうちに1週間分の掃除だの洗濯だの買い物だのを済ませなければならないからちょっと面倒だなと思った。
 ここ最近ずっと頭の中がとっ散らかっている。汚れた部屋を整理したら全部がらくただったみたいに、思いついて書いてみてはまとまりのない文章が出来上がって、フォルダの中には没になったワードファイルばかりが溜まっていく。
 1人暮らしを始めてから毎日ずっと自炊していたのだけど、遂にパンにも米にも麺にも飽き飽きしてしまった。なにより自分の作った食事に飽きている。だからと言って食べたいものも思いつかない。

 土曜日、眼科に行って医者と話してコンタクトの度数を下げることになった。またトライアルを使うことになって、またコンタクトを買うことができなかった。
 買い物をして洗濯物を干すともう家を出なければいけない時間だった。これから病院に行って父の夕食を見届けてとなると、帰ってくるときにはもうすっかり夜になっているだろう。明日以降のために少し料理して作り置きしないといけないし、今日は何もできない。明日はまた仕事だ……。
 頭痛を抱えながら、でも予定を変更することはできなくて電車に乗って病院に向かう。度数を落としたコンタクトは、眼科では大して違わないと思ったのにそれをつけて外を歩いてみると遠くの方が随分ぼやけた。
 自分のことなのに、ままならないことばっかりだ。薄っぺらいコンタクトレンズ1枚で見える世界の輪郭が滲む。時間も思考も肉体も、思うとおりには動かせない。自分の意思以外の余りにも多くの要素が混ざり合って私を決定していく。ままならない。なんだかうんざりする。
 ここのところ一時的に仕事が忙しいのが理由なのだと思う。疲れていて、何もかも面倒くさい。布団で寝たらそのままバターみたいに溶けていないかなとか、曲がり角から出てきたトラックが吹っ飛ばしてくれないかなとか、そういうことばかり思いつく。
 別に死にたかないが少し疲れている。あとはまあ、寂しいのかもしれない。彼氏がいたらいいかなあ。でも私は他人の体温が苦手なのであんまり接触はしたくないし、彼氏と言ってもそんなに頻繁に連絡を取ったり会ったりしなくてもいいし、そいつがどこの女といつ何をしていようが全然気にならないし、そういうのは一般的には彼氏とは呼べないらしい。
    付き合ったり結婚したりとかいうことを考えないわけではないけれど、想像してもどうもしっくりこない。1人でやりたいことが多すぎて、誰かと人生を分け合うイメージができない。どっかの占いの結婚運で「家事はするが家庭的ではない」と書かれていたのを思い出す。

 病院というのはもっと辛気臭い場所だと思っていたが、都心にあるせいなのか思ったよりずっとこじゃれている。ちょっとした展望レストランも24時間の売店もあるし、タリーズコーヒーまで入っている。
 ロビーで警備員のいる受付表に名前を書く。表には患者との関係性を記入する欄もあって、見ると妻、母、姉、見舞いに来ているのは女性ばっかりだ。
 大仰にもカードキーを翳さないと入れない(土日はそういうシステムらしい)病棟で父と面会する。
 中に入ってみて改めて思ったけれど、入院していてできることは余りにも少ない。想像するだけでぞっとするような暇さだ。退屈じゃないのか訊くと、慣れるよと父は答える。少し喋って、やたらと寒い談話室で並んで夕食を食べる。私はおにぎりとサラダを買った。病院の売店は割高だ。動かないで食べるばかりだから太りそうだと父が言う。お見舞いにもらったという帝国ホテルのチョコレートを2つ、持って帰れと渡された。

 翌日は出勤なので早めに病院を出る。帰りの電車は最後に川を渡る。外を歩きたくて、最寄駅の1つ前で降りる。
 川が好きだ。当然だけど川には建物がないから急に空が拡大する。押しつぶされそうな空には解放感がある。東京に住んでいるとそういう場所はなかなかない。本当に何もない広々とした田舎だと心もとなくなってしまうので、川という部分的な自然具合が丁度よいのだと思う。
 1キロくらいの橋を歩く。脇をハイウェイかと思うような速度で車が走っていく。実家の近くにも川があったけど、それより川幅がずっと広くて、水量も多くて、ちょっとした湖のように見える。強い風が常に吹いていて髪がなぶられる。
 少しつめたいくらいの風が心地よい。ソーダ水のように頭の中にふつふつと言葉が湧いてくる。まだずっと歩けそうな気がする。
1人で行くしかない道を選んでいる。それでも誰か一緒に生きてくれたらなと思っている。
    私は誰にも守ってほしくないし、支え合いたくないし、つらいとき傍にいてほしいと思わない。同じものを見たいとも思わない。ただ、一緒に戦ってほしい。戦う相手はそれぞれ別で構わない。戦っている人と背中合わせで一緒に生きていたい。そういう人と、混ざらなくても交ざりあって生きていけたらいいのに。

 家に帰ってもらったチョコの包みを開くと、ホワイトチョコとビターチョコのマーブル模様をしていた。

《告知》5/4文学フリマ出店します。

告知です。
5/4 東京流通センター 第二展示場で開催される第二十回文学フリマ東京に、サークル「好きにさせろよ」にて出店します。
出品は以下2点の予定です。

①『好きにさせろよvol.1』
本ブログ記事の抜粋+書き下ろしを加えたフリーペーパー

②『闇鍋』
満島エリオ他2名がそれぞれ記事を寄稿した雑誌形式の読み物です。私は小説にて『ひかりのふね』という作品を載せます。価格未定ですが32P 300〜400円になる予定。
 ブース位置 : エ-38 (Fホール(2F))
 カテゴリ   : ノンフィクション|雑誌
文学フリマ公式サイト:http://bunfree.net/?tokyo_bun20

以上、お待ちしております。

2015年4月1日水曜日

なる。

  植物の一斉に芽吹く匂いなのか、春は蠢き混ざり合うような落ち着かない香りが満ちる。    
  春がずっと苦手だ。いろんな事がいっぺんに変わって、また一から新しいことに順応しなければいけないことが苦痛だった。せっかくなんとか確保した居場所が取り上げられて、丸裸にされるようで嫌だった。クラス替えでグループを組んでくれる相手がいるかどうかは死活問題だった。春にいい思い出はない。


  近ごろ、「なる」という言葉をよく耳にする。
  顔を知っている最後の後輩が大学を卒業して、社会人になった。
  知り合いが国家試験に受かって薬剤師になった。
  仕事を辞めてもう一度大学生になった人もいる。
  彼らにとって、今日4月1日は新しい特別な日だろう。今までは私もそうだった。けれど社会人になって、その日付はなんの境にもならなくなった。桜はただ春の花として、咲いてはあっという間に散っていく。
  学生のころ、何もしなくても何かになれた。
  中学を卒業すれば高校生に。1年生は2年生に。大学生は社会人に。でなければその他の何かに。その時々で受験や就活なんかのハードルはあったにせよ、時間の流れとともにベルトコンベアのように自動的にその段階はやってきて、その段差を上ればよかった。
  でもこれから先はそうではない。自分から何かになろうと思わなければ何にもなれない。     
  季節はらせんみたいに途切れることなくただ延々と続く。春はもう待ってくれない。
  そこで私は大きな思い違いに気づく。「何か」にはいつでもなれるかもしれない。でも「なりたい何か」になるためには相応の努力が必要だということ。今までこれからだって、それは同じだ。ただ、これから先は努力の他に、今いる場所から飛び出す覚悟が必要になる。
  これから先の人生で、まだ私はなにかに「なる」ことができるだろうか?


  家の近くに小さなグラウンドがあって、休日のたびに少年野球チームが練習している。
  ある日通りがかったら練習試合をやっていた。マウンドに立つ少年が投げる。監督から檄が飛ぶ。一つの白球に集まる視線。緊張感。小さな体をユニフォームに包んだ少年が、もう一度球を握りしめる。その姿が孤高で、息を飲むほどかっこよかった。
  小さくても幼くても、土のダイヤモンドの真ん中で彼は確かにピッチャーだった。
  甲子園で、メジャーリーグで、いつかマウンドに立つ日が来るのかもしれない。
  それが彼の夢なら叶えてほしい。

  彼が「なる」姿が見たい。