植物の一斉に芽吹く匂いなのか、春は蠢き混ざり合うような落ち着かない香りが満ちる。
春がずっと苦手だ。いろんな事がいっぺんに変わって、また一から新しいことに順応しなければいけないことが苦痛だった。せっかくなんとか確保した居場所が取り上げられて、丸裸にされるようで嫌だった。クラス替えでグループを組んでくれる相手がいるかどうかは死活問題だった。春にいい思い出はない。
近ごろ、「なる」という言葉をよく耳にする。
顔を知っている最後の後輩が大学を卒業して、社会人になった。
知り合いが国家試験に受かって薬剤師になった。
仕事を辞めてもう一度大学生になった人もいる。
彼らにとって、今日4月1日は新しい特別な日だろう。今までは私もそうだった。けれど社会人になって、その日付はなんの境にもならなくなった。桜はただ春の花として、咲いてはあっという間に散っていく。
学生のころ、何もしなくても何かになれた。
中学を卒業すれば高校生に。1年生は2年生に。大学生は社会人に。でなければその他の何かに。その時々で受験や就活なんかのハードルはあったにせよ、時間の流れとともにベルトコンベアのように自動的にその段階はやってきて、その段差を上ればよかった。
でもこれから先はそうではない。自分から何かになろうと思わなければ何にもなれない。
季節はらせんみたいに途切れることなくただ延々と続く。春はもう待ってくれない。
そこで私は大きな思い違いに気づく。「何か」にはいつでもなれるかもしれない。でも「なりたい何か」になるためには相応の努力が必要だということ。今までこれからだって、それは同じだ。ただ、これから先は努力の他に、今いる場所から飛び出す覚悟が必要になる。
これから先の人生で、まだ私はなにかに「なる」ことができるだろうか?
家の近くに小さなグラウンドがあって、休日のたびに少年野球チームが練習している。
ある日通りがかったら練習試合をやっていた。マウンドに立つ少年が投げる。監督から檄が飛ぶ。一つの白球に集まる視線。緊張感。小さな体をユニフォームに包んだ少年が、もう一度球を握りしめる。その姿が孤高で、息を飲むほどかっこよかった。
小さくても幼くても、土のダイヤモンドの真ん中で彼は確かにピッチャーだった。
甲子園で、メジャーリーグで、いつかマウンドに立つ日が来るのかもしれない。
それが彼の夢なら叶えてほしい。
彼が「なる」姿が見たい。
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