5月16、17日、デザインフェスタに行ってきた。出展者1万2千人を誇る、世界規模のアートイベントだ。
存在は知っていたけれど、初めて行ってみて驚いたのはそのクオリティの高さだった。正直、こんだけの数のブースが出展しているのなら道楽で参加するど素人が散見されるのだろうとたかを括っていたのだが、全てのスペースを一通り回ってみてレベルが低いと感じられるものはほぼなかったと言っていい。
歌、ダンス、ライブペイントなどのパフォーマンス系もあるけれどだいたいのブースは物販なのだが、そのどれもが到底手作りとは思えなかった。「モノ」を作らない私のような人間には、アマチュアでどうやってあんな製品が作れるのかさっぱりわからない。店頭に並んでいたら業者の作っている市販品にしか見えないだろう。そういうレベルのものでビッグサイトはあふれかえっていた。
最初に質の高さに驚いて、でも次に私が感じたのはむなしさというか、やるせなさみたいな感覚だった。これだけのものが作れるのに、クオリティとしては充分なのに、「その程度」ならビッグサイトを埋め尽くすほどの人間に同じことができるのだ。そして、傍目にはほとんど同じようなものを売っているのに、あるブースでは行列ができ、別のブースは閑古鳥が鳴いている。その境界がどこにあるのか、あるいはそんな境界が本当に存在するのか、少なくとも作品だけを見ている限りはわからなかった。
プロアマの境がなくなってきていると言われる。様々なツールや業者が用意されている今、根気と情熱といくらかの金があれば、誰でもある程度のモノが作れるようになった。逆に言えば、そのレベルの人間が既に飽和している。
ブースの間を歩きながら、原宿を歩くときもいつもこんな気分になる、と思った。原宿という街には奇抜なファッションや髪色の人達がうじゃうじゃしている。だけど「人と違う自分でありたい」という同一のベクトルを持った人間が集まりすぎて、結果的にみんな埋没しているように見える。
何かになりたい人が多すぎる、と思った。
人は誰しも生まれてこのかた自分が主役、自分の視界だけで世界を展開してきた。自分は誰よりかけがえのない、重要な主人公だ。道を歩いていたら前から来た人が自分の顔をまじまじと見つめ、「君には才能がある。君は特別な存在だ」と言ってくれる妄想を、誰もが一度はしたことがあるんじゃないだろうか。
なんだかんだいって、みんな自分に秘められた可能性を信じている。なのに、一歩社会に踏み出すと誰も特別扱いなんてしてくれない。交換可能なその他大勢としての居場所しか用意されていない。そのギャップに戸惑って、受け入れられなかった人間が、這い上がるためにそのうち何かを作り始めるんだと思う。
デザインフェスタにはそういう人達が満ち溢れいた。それは出展者だけじゃなく来場者にも同じことが言える気がした。誰もが自分にしかわからない価値を見つけたくて、そして自分にしかない価値を見つけて欲しくてあの場に集まっているように見えた。そこにはあらゆる形での自意識が窒息せんばかりに氾濫していて、それはとても尊いエネルギーなのだろうけど、私はそれに酔って、息苦しくなってしまった。ここまで来たってまだ1万2千分の1の有象無象のくせに、と心の中で毒づいた。
結局、同族嫌悪なのだろう。私だって自分に特別な何かがあるという思いを捨てきれなくて、膨れ上がった自意識を持て余した人間だ。だけどその程度の存在はいくらでもいて、そこから頭一つ突き抜ける難しさを――何者かになるということの途方のなさを見せつけられて嫌気がさしただけだ。
私は私だ。そんなことは言われなくたってわかっている。でもそれだけじゃ満たされないのだ。どうしようもなく飢えていて、強欲だ。「自分は自分」という答えを拒絶するなら、何者でもない自分からスタートするしかない。無数の名前のない存在のひしめく中に飛び込んでいくしかない。たとえそれが、欠けた杯に水を注ぐようなことだとしても。
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