2015年12月7日月曜日

淵を渡る人

色々考えた末、転職することにした。
とりあえずと転職エージェントの面談のために、東京駅の丸ビルへ行った。
お昼どきだったので小綺麗な格好のOLが、小さなトートバッグを持って歩いているのを何人も見かけた。財布と携帯とポーチだけが入る、昼休み用のあれだ。丸の内OLもあれを持ってランチに行くんだなと少し意外な気持ちで見ていた。全身の中でそのバッグだけが妙に安っぽくて、滑稽だった。

面談が終わりスターバックスで履歴書を一枚書いたあと、それをkitteで出すついでにせっかくだからと屋上庭園に上がってみた。夕闇迫るなか、赤れんがの東京駅が真ん中に据えられ、きっちり区画整理されてそびえる高層ビル群がそれを見下ろしている。まるで成功の象徴そのものであるかのように、その景色は広がっていた。
駅舎を挟んで八重洲口の方にあるビルのガラス張りの壁面の内側を、何基かのエレベーターが上ったり下ったりしているのが見えた。以前都心のホテルかどこかで家族で食事をしたとき、同じように高層エレベーターに乗った父が「こういうところで毎日働いていたら、自分が特別な人間だと勘違いするだろうね」と言ったのを思い出した。確かに、とすごく納得したのを思ったのを覚えている。この街並みを毎日ハイヒールを鳴らしながら歩いていたら、選民思想の一つや二つ芽生えるだろう。

屋上の端まで行って見上げると、電気がついているオフィスの中の様子がよく見えた。そこには普通にデスクがあり、プリンターがあり、天井に貼りついた照明や空調があった。巨大なビルの中で、それはミニチュアのように小さくて、あっけなかった。どこにいても、誰であっても、人が一人分の大きさしかないしかないことは変わらないのだ。
急に、すべてがむなしいような気がした。きっと、私がどこで働いていようが、何を着て誰と一緒にいようがそんなことどうだっていいことなのだ。なにもかもあまりも些末事だ。でも、だとしたら、確かなものなんかもうこの世になんにもないんじゃないか。

私は屋内に戻り、下りエスカレーターに乗った。それぞれのフロアには雑貨や本や服のテナントが入っていて、途中で一度降りて、ぐるりと回ってみた。
ディスプレイされた商品はどれもこれもみな洗練されていて、最先端で、これを生活に取り入れたらワンランク上の自分になれそうだった。その一方で、こんなものになんの意味があるんだろうという気持ちが湧きだして拭えない。
高級な石鹸や、アロマオイルや、間接照明や、用途を細かく分けられた食器、そういうものが気持ちに灯をともすことがあると知っている。たまに背伸びした買い物をしては、それを燃料のように燃やして前に進むエネルギーを得ることが生き延びる知恵なのだと知っている。だけど、それは私という人間の本質を変えてはくれない。外側を取り繕っても自分自身がランクアップするわけじゃない。だから、そんなのは嘘っぱちじゃないかとどこかで思っている。
私は本当のことが欲しい。本当のことだけが欲しい。例えば、百均の皿でだって飯は食える、というような、シンプルな事実だけを積み上げて生きていきたい。
だけどもしかして、本当も嘘も間違いもないのかもしれない。ただ一人分の幅で生きて、一人分の幅で死んでいくのだということ以外は。

まばゆいディスプレイに囲まれながら、自分がなにが好きで、なにに憧れていて、なにが欲しいのか、そういうことが全部ぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいにわからなくなってしまった。しっかり握りしめていたはずの目標や芯みたいなものが溶け流れてしまって、迷子みたいな気分だった。
むなしい、と思った。人ひとり、私ひとりの人生なんてあまりにもどうでもよすぎて。

帰り道、メトロの中で窓の外の灰色のコンクリートを見ながら、渡りきれるだろうか、と考えた。
きっと死ぬまで付きまとうこのむなしさを、夢の中の海を泳ぐみたいに最後まで渡りきることが。
そうしてむなしさを越えた場所にあるなにかを、一つでも掴むことができるだろうか。
私は今日も探している。

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